黒坂麻衣さん

黒坂麻衣さんが亡くなりました。7日のことです。信じられなかった。でも受け入れるしかないとも思いました。とても苦しかったです。あの時こうすればよかった、ああすればよかったばかりが頭をよぎりました。麻衣さんが帰ってくるわけでもないのに。後悔です。先ほど麻衣さんのお母様からメッセージがきました。そして私が告知をすることを承諾してもらいました。私は麻衣さんを深く愛していました。私は彼女の恋人でしたから。少なくとも私自身はそう思っています。正直に彼女は色々な問題を抱えていて、私としても大変だったけど… しかし、それでもそれに勝る喜びが常にあった。麻衣さんは素晴らしい人だった。彼女は私を感動させてくれたし、とても聡明な意見をくれて救われたことが何度もある。今私はとても苦しいですが、彼女に出会わなければ良かったなんて決して思えない。とても幸せな日々だった。感謝しかない。幸福と笑いがあった。楽しかった。同じ芸術家として色んなことを話した。そういった想いは時がたつにつれ、ひょっとしたら薄まるかもしれない。でも消えることはないでしょう。今のこの苦しみを超えて私は立ち直ります

 

 ずっと固形物が喉を通らなかったが、今日やっとまともな食事をすることができた。といっても立ち食いそばですが。そういえば麻衣さんと最後に一緒に食べたのも立ち食いそばでした。先日友人と会い「麻衣さんは荒んでいた杉本さんを救うために現れて、その役目を果たして去って行ったのでは?そんな感じがする。杉本さんは変わったから」というようなことを言われました。確かにそうだとしか思えない。そう思わないとやっていけない。亡くなる数日前に彼女は私の今度リリースされるCDのために絵を仕上げてくれました。彼女が去っていった悲しみを超えて私は生きなければいけない。そしてその生き方も変えなければ。自分の仕事に全力で挑もう。ここ何日かはずっとそういうことを考えてきました。出会う前から麻衣さんの描く絵にとても惹かれていました。彼女の絵には極めて非凡なものがあった。私にはそれがよくわかります。それを研ぎ澄ましていけばなにかとんでもない作品が出来たかもしれない。しかし、それは危険な賭けだったかもしれません。芸術家の人生とは、生き方とは何によって決まるのか?私は、長く生きることでも、作品の数でも、もしかしたら成し遂げたことによって決まるのでもない気がしてなりません。可能性の追求が出来たか、だと強く思うのです。作品は可能性の追求の過程で生まれる派生物なのではないのでしょうか?もちろんそこにはこの追求の痕跡があり、それを通してなにかが受け継がれていく。過程だけがすべてなのです。私は麻衣さんと一緒の現実の幸福も求めていた。だがそれは極めて難しかったと思います。私と麻衣さんとの時間はふたりの社会不適合者(芸術家)による可能性の追求の旅のようなものでした。出会いも必然だったと思います。全てが運命だったのでしょう。

 

無茶苦茶な旅だったけど、とても楽しかったよ、麻衣。私のダメ人間ぶり、社会不適合者ぶりはこれからも変わらないかもしれない。でも、あなたからバトンタッチされたもの、そして自分の理想は決してなくさないよ。I was really happy to have met you.

 

思ったことをすべて書いたように思います。

solo for strings、そしてnexusについて

去年の2月、私はインフルエンザで寝込んでいた。と言っても、なんか熱っぽいなあ、と体温を測ったたら39度あり、人に移してはいけないと思い念のために医者にいったらインフルエンザが判明しただけで、実際に寝込んだのは――というより横になっていたのは1〜2日だけで、私は普通に生活していた(つまり、普通に食事をし、あろうことか酒まで飲んでいた)。インフルエンザが判明した頃はもう回復していたので、もらった薬は捨てたほどである。
横になっていたときに、メロディーの断片がいくつか頭の中に浮かんできた。私はそれらを整理し、それが弦楽器のハーモ二クスで再現可能か否かを検討し、場合によっては音を変え、そうして、そこからふたつの曲を作った。その過程は全て頭の中でおこなわれていたため、忘れないように何回も脳内再生し、翌朝になって――あるいはもう午後になっていたのかもしれないが――それらを五線譜にしたのである。solo for viola 1とsolo for violoncello 1がそうである。
私はこれらの曲を、誰かにどこかで演奏してもらうという具体的なプランを持たずに書いた。ただ作曲したわけである。ではあるが、そのすぐ後に作曲したsolo for viola 2とあわせてsolo for viola 1はJohnny Changと池田陽子、solo for violoncello 1はStefan Thutに送った。そして同時期に水道橋チェンバー・アンサンブルがJohnnyの曲を演奏するコンサートが水道橋のフタリと大崎のl-eであり、そのふたつのコンサートでそれぞれsolo for viola 1とsolo for viola 2は演奏された。solo for violoncello 1のほうは、同年の3月から4月にかけての佐伯美波とのSongsのヨーロッパ・ツアーにおけるシェフィールドでのコンサートにおいて、Ecka Mordecaiによって演奏され、後にStefan Thutのソロ・リサイタルでも演奏された。
こうして、私が"solo for strings"と仮に呼ぶところのシリーズが始まったわけであるが、最初のうちはこのシリーズの曲のそれぞれは純然なソロの楽曲として作曲されていた。ところがこのシリーズにとりかかる少し前にコントラバス/チェロ奏者であるFelicie Bazelaireから、彼女の弦楽アンサンブルのための作曲を私は受けていたのだが、実際にアンサンブルのメンバーの誰がコンサートなり録音のために演奏できるかと言うことが不確定なことも手伝って、私には明確なアイデアがまるで浮かばないという状態が長く続いていた。あるとき閃いたのが、この"solo for strings"を同時演奏したら面白いのではないかということであった。(注1)
弦楽器のチューニングは完全5度、あるいは完全4度(コントラバス)でおこなう。それらが純正にチューニングされるとき、隣り合う開放弦の協和度は高く、それらの弦から発生する倍音はその一部であると解釈すればよいのではないか、またハーモ二クスは純音に近いので、それらから発生する倍音によるうなりを生じることは少くなくなるであろう、というのが"solo for strings"の各曲の同時演奏を実行しよう思い立った理屈である。
このアイデアを後押ししたのが、Songs用に作ったhである。2017年の秋にSongsのツアーをしていたときに、私達は池田陽子、池田若菜、Stefan Thut、Manfred Werderをくわえてのセクステットでのコンサートと録音をおこなった。そのときにStefanが作曲した"amidst"に感銘を受けた(というよりくやしかったのかなあ)私は新たに1曲作ってSongsのレパートリーに入れようと思ったわけである。作曲はデンマークの友人宅で始まったが、多くのパートはそこからフィンランドヘルシンキに行くまでの空港と飛行機の中で書いた。私はギターの2弦をCにチューニングすることで(3弦のGから純正の完全4度に合わせる)、ピタゴラス音律のCメジャーと純正律のAメジャーがハーモ二クスにより同時に演奏可能なことに気がついた。この曲は少なくともギターでは、ピタゴラス音律のCメジャーと純正律のAメジャーによる短い反復するメロディが交互に出てくることで構成されている単旋律の曲である。
しばらくして、これに他の楽器を加えるというということを思いついた。というか、そういう必要が実際に出てきたのである。私は共演者のためにチェロ、コントラバス、サイントーンのパートを書いた。(注2)
このときにいまさらながら気付いたことがふたつある。ひとつはhのためのギター2弦の調弦Cはヴィオラの4弦開放弦のオクターブ上、チェロの4弦開放弦の2オクターブ上と(セント値およびヘルツは)理論的には同じ音程であることと、完全5度で調弦する弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)ではハーモ二クスによる純正律長音階の演奏が極めて難しいことであった(というか人工的ハーモ二クスを用いずに長音階を奏でることは可能なのだろうか?)。ギターと同じ完全4度で調弦するコントラバスではそれほど高次倍音を使わなくても割合自由な旋律が書けたが、チェロではそうはいかなかったことである。hのためのチェロのパートとコントラバスのパートはまったく違う性質のものとなった。サイントーンはそういった制約から自由であるが――なので使い勝手がよいと言えるが――、私は弦楽器におけるこの制約と縛りがとても面白いと感じるようになった。
歌とギターのヴァージョンでも、それぞれのメロディ(おなじ単旋律を共有する)を完全に縦にあわせることは想定しておらず、それぞれが自分のテンポを維持しながらも相手の音を聴き、むしろところどころで意図的にずれることを望んだ。つまり、A majorのメロディにC majorのメロディが重なってても良かったわけである。チェロとコントラバスもパートもA majorとC majorのメロディーが交互に出てくるようにように書いたが、これらも実際は適度にずれて演奏されることが望ましいので、所謂対旋律とは呼べないものになっていると思う。サイントーンのパートは弦楽器(主にギター)でハーモニクスが弾かれる弦の高次倍音から構成されており、ここに調性的なものはほとんどない。ピタゴラス音律のCメジャーとも純正律のAメジャーともまったく違った音律なのである。これらを同時に鳴らしたらどうなるのか?私はその音が聞きたかった。そして、hのチェロ・パート、コントラバス・パート、サイントーン・パートを書いていた時期が
"solo for strings"を書き始めた時期とちょうど重なっているのである。
次に私は"nexus"というシリーズに着手した。始めたのは去年の8月か9月であったと思う。表向きはソロの曲となっているが――そして実際にソロで演奏されることが多いが――、今度は全ての曲が最初から同時演奏を想定して書かれている。(注3)
このシリーズではあまりハーモ二クスは使われない。今度は逆にハーモ二クスによって失われるであろう倍音に耳をすますことで純正音程(整数比音程)を得ようというのが狙いであった。
私はまず自分の楽器であるギターのために数曲書いた。ギターでどうやって微分音を弾くか、がまず問題となる。ロック・ギタリストであれば大抵知っているテクニックのひとつにベンディング(日本ではチョーキングとして知られている)というテクニックがある。それについて細かい説明するのは面倒なので省略するが、要するに弦を上下に引っ張って音を上げるテクニックである。ソリッド・ギターに張るような細い弦を使えば全音(あるいはそれ+半音)は音を上げられる。だが下げることはできない、と多くのギタリストは思っていることだろう。ところがそうではない。弦のゲージにもよるが、私が使っている12-52くらいの弦でも、20セントくらいは下げられるのである。抑えている指をブリッジ側に引っ張ればよい(ナット側に引っ張れば反対に音は上がり、このやり方を覚えておいてもソンはない)。ただし、どこでもというわけにはいかない。そのやり方で音が下がるは7フレットくらいから先である。
具体的に書くと、nexus 1 (for guitar)で私が使った音律は、1、8/7、5/4、4/3、5/3の5音音階である。まずはシンプルなものからスタートしたかった。1は4弦の開放弦Dにした。それをもとに(つまりその開放弦に含まれる倍音を聞きながら)純正音程をとるには、8/7と5/4を5弦の7フレットと9フレット使って弾かなければならない。(注4)5/4を3弦の開放弦にあてるという手もあるが、私はその開放弦を4/3のためにとっておきたかったのである。そこから音をとるガイドとなるであろうシンプルな整数比音程にはなるべく開放弦をあてたほうがよいと私は思う。
8/7を得るには、開放弦Dをガイドにして、その第7倍音が5弦7フレットをベンディングした音の第8倍音と近くなれるようにすればよい。そのふたつの倍音間に生じるうなりを注意深く聴き、そのうなりがなくなるようにすれば、望んだ整数比に近い音程になる。5/4は5弦9フレットを使って、先述のテクニックで音を下げる。4弦D以外にも2弦開放弦B-18もガイドになる(そういうところもこの曲にはある)。この音程はとりやすいと思う。
しかし、私はそれとわかるダブル・ストップ(重奏)をこの曲では使っていない。音程をとるためとは言え。これ以上の制限を設けたくなかったのと、他の曲との同時演奏が頭にあるので、まずはなるたけ単純な曲をまず作りたかったのである(後に作ったnexus 6 for guitarではダブル・ストップがフィーチャーされている)。その代わりに、隣り合うふたつないしみっつの音をなるべくオーバー・ラップさせることで音程をとるやり方を選んだ。
nexus 2はヴィオラのために書いた。今度はギターとは違い、低い弦をガイドとして鳴らしながら隣の高い弦を弾くようにしたが、それはその方が指使い的にも楽になるからでもある。この曲では全編にわたってダブル・ストップで奏されるがこれも楽器の特性と弾きやすさ(音程のとりやすさ)を考慮した結果である。そしてすべてのダイアド(2音の和音)は完全5度より広いものとなった(しかし、そのほうが協和度が高くなるケースも多い)。
短い解説を書くつもりが長くなってしまいました。続きはまたの機会ということで、最後に、去年の11月にベルリンで私の弾くnexus 1、Denis Sorokinの弾くnexus 3、Johnny Changの弾くnexus 2の同時を試みたが、大変に満足できる結果となったことを報告しておこう。


(注1)
これまで書かれた"solo for strings"の曲は、solo for viola 1、 solo for violoncello 1、 solo for viola 2、 solo for the E string of guitar、 solo for violin 1、 solo for contrabass 1、 solo for the G string of vc or cb 1、 solo for the G string of vc or cb 2、 solo for the G string of vln or vla、 solo for sine-tonesであるが、同時演奏のアイデアが浮かんでから書いたのはsolo for contrabass 1以降の曲になる。またsolo for the E string of guitarとsolo for sine-tonesはいわば番外であるが、"solo for strings"各曲との相性は良いはずである。
ギターが弦楽器であることとハーモ二クスの音色がサイントーンに近いからである。実際に、Felicieによるsolo for violoncello 1、Stefanによるsolo for violoncello 1、私によるsolo for the E string of guitar、Léo Dupleixによるsolo for sine-tonesの同時演奏はとても興味深いものとなった。
(注2)
しかしこれまでにチェロ、コントラバス、サイントーンがそろったことは一度もない。
(注3)
これまでに書いたのは、nexus 1 for guitar、nexus 2 for viola、nexus 3 for guitar、nexus 4 for voice and guitar nexus 5 for guitar(s)、nexus 6 for guitar、nexus 7 for violin、nexus 8 for viola and/or voiceである。ギターや弦楽器のための曲が多いが理由は本文に書かれていると思う。
(注4)
発言楽器は弦の長さが短くなると減衰も早くなる。例えば1弦開放弦Eのほうが3弦9フレットを押さえてだすEよりも減衰が遅い。このことは考慮にいれなくてはならない。

読書備忘録 2018 および1月のコンサートの宣伝

あけましておめでとうございます。
1月はコンサートがたくさんあります。
21日は大崎のl-e、残りはすべて水道橋のフタリです。
2月はヨーロッパにツアーに行って、3月中旬に帰ってきます。
その後もいくつかコンサートが予定されています。


1月16日(水)
佐伯美波ソロ
池田陽子ソロ(杉本拓作曲によるヴァイオリン/ヴィオラ曲)
19:30開場/20:00開演
2000円
水道橋Ftarri
http://www.ftarri.com/suidobashi/


1月20日(日)
19:30開場/20:00開演
Suidobashi Chamber Ensemble:池田陽子 (ヴィオラ)、池田若菜 (フルート)、大蔵雅彦 (クラリネット)、杉本拓 (ギター)、内藤彩 (ファゴット)
料金:未定
Léo Dupleixの作曲作品を演奏する予定です。
http://www.ftarri.com/suidobashi/


1月21日(月)
ju sei
変な即興バンド:
池田若菜(フルート)
Léo Dupleix(サイン・トーン)
大城真(自作楽器)
杉本拓(ギター)
浦裕幸(パーカッション)
19:30開場/20:00開演
2000円
大崎l-e
http://www.l-e-osaki.org/


1月23日(水)
Manuke Trio (マヌケ・トリオ):
Léo Dupleix (computer, objects, sine -tones)
杉本拓 (guitar)
佐伯美波 (voice)
19:30開場/20:00開演
2000円
水道橋Ftarri
http://www.ftarri.com/suidobashi/


1月24日(木)
Samuel Dunscombe [from Australia] (クラリネット)、杉本拓 (ギター)
19:30開場/20:00開演
2000円
小川道子(クラリネット)も参加予定です。変な即興バンド
http://www.ftarri.com/suidobashi/



今年(というか去年)はあまり本が読めなかったなあ。ツアーに何冊も本を持っていくのはかさばるので、厚みがない本か、文庫本が多くなる。
"STUDIES In ETHNOMUSICOLOGY Volume 1" は Folkways Recordsが出していたジャーナルで、古本屋で見つけたものだが、何で他の巻も買わなかったのだろうと激しく後悔している。1冊300円だったのだが、多分持ちあわせがなかったのだろうなあ。これは3月にヨーロッパをツアー中に読んだ本の一冊。
松本俊夫の『表現の世界』、細馬宏道の『うたのしくみ』、ローラ・クーンの編集による"THE SELECTED LETTERS of JOHN CAGE"等が2018年の収穫。ミルの『自由論』にも感銘をうけた。岡崎武史の『女子の古本屋』も面白かったなあ。自分の本も出ました。売れているのかいな?――(というより売っていない?)
それに年末は「ロシアもの」を多く読みましたね。これはまだ続いています。
今年は日本文学を読んでみようと思う。それとやはり音楽の本。"STUDIES In ETHNOMUSICOLOGY"、どこかで安く売ってないかなあ?


『音楽の零度 ジョン・ケージの世界』 J・ケージ 近藤譲朝日出版社 1980 (再読)
バルトーク』 伊藤信宏 中公新書 1997
"FOLK AND TRADITIONAL MUSIC OF THE WESTERN CONTINENTS THIRD EDITION" Bruno Nettle Princeton Hall 1990
スターリン・ジョーク』 平井吉夫編 河出文庫 1990 (再読)
フェルマーの最終定理サイモン・シン 青木薫新潮文庫 2006
"STUDIES In ETHNOMUSICOLOGY Volume 1" Editor: M. Kolinski Folkways Records & Service Corporation, Inc. New York 1961
『楽器の音響学』 安藤由典 音楽之友社 1971
丸山薫詩集』 昭南書房 1943
"Logical Investigation" Gottlob Frege translation by P. T. Geach and R. H. Stoothoff Oxford Basil Blackwell 1977
キネマ旬報セレクション 高畑勲キネマ旬報社 2013
『楽譜と解説』 杉本拓 サボテン出版 2018
『うたのしくみ』 細馬宏道 ぴあ 2014
『女子の古本屋』 岡崎武史 ちくま文庫 2011
『夢の中の夢』 アントニオ・タブッキ 和田忠彦訳 岩波文庫
『表現の世界』 松本俊夫 清流出版
『知とは何か』 P.K.ファイヤアーベント 村上陽一郎新曜社 (再再読)
『増補 響の考古学」 藤枝守 平凡社ライブラリー 2007(再読)
『論理哲学論』 ウィトゲンシュタイン 山本一郎訳 中公クラシックス 2001
フランダースの犬』 ウィーダ 村岡花子新潮文庫
アンダーグラウンド映画』 シェルドン・レナン 波多野哲郎訳 三一書房 1969
"THE SELECTED LETTERS of JOHN CAGE" Edited by Laura Kuhn Wesleyan University Press 2016
『回想のジョン・ケージ――同時代を生きた8人へのインタビュー』 末延芳晴 音楽之友社 1996 (再再読)
『日本の音を聴く』 (新増補版) 柴田南雄 青土社 1994
ベルイマン自伝』 イングマール・ベルイマン 木原武一訳 新潮社 1989
『故郷』 チェーザレ・パヴェーぜ 河島英昭訳 岩波文庫
『自由論』 J・S・ミル 山岡洋一光文社古典新訳文庫
デュシャンとの会話』 G・シャルボニエ 北山研二訳 みすずライブラリー (再読)
高橋悠治という怪物』 青柳いづみこ 河出書房新社 2018
『猫だましい』  河合隼雄  新潮文庫
『哲学者にならない方法』  土屋賢ニ  東京書籍  2013
『欧州ポピュリズム――EU分断は避けられるか』  庄司克宏  ちくま新書  2018
カラマーゾフの兄弟1』  ドストエフスキー  亀山郁夫訳  光文社古典新訳文庫
『賭博者』  ドストエフスキー  原卓也訳  新潮文庫
カラマーゾフの兄弟 2』  ドストエフスキー  亀山郁夫訳  光文社古典新訳文庫
『クロイツェル・ソナタ 悪魔』  トルストイ  原卓也訳  新潮文庫
『ロシア その民族と心』  川端香男里  講談社学術文庫
カラマーゾフの兄弟 3』  ドストエフスキー  亀山郁夫訳  光文社古典新訳文庫
『ボリス・ゴドゥノフ』  プーシキン  佐々木彰訳  岩波文庫
カラマーゾフの兄弟 4』  ドストエフスキー  亀山郁夫訳  光文社古典新訳文庫
カラマーゾフの兄弟 5――エピローグ別館』  ドストエフスキー  亀山郁夫訳  光文社古典新訳文庫
『フランス映画どこへ行く――ヌーヴェル・ヴァーグから遠く離れて』  林瑞絵  花伝社  
猫町 他十七篇』  萩原朔太郎作  清岡卓行編  岩波文庫  

読書備忘録 2017

『「音楽」以前』 藤井友昭 NHKブックス 1978 
『ある革命家の手記』上下巻 P・クロポトキン 高杉一郎訳 岩波文庫
『白夜』 ドストエフスキー 小沼文彦訳 角川文庫
『音のうち・そと』 北川純子 勁草書房 1993
『初恋』 ツルゲーネフ 神西清訳 新潮文庫
『可愛い女・犬を連れた奥さん 多一篇 チェーホフ 上西清訳 岩波文庫
『音楽と中産階級』 ウィリアム・ウェーバー 城戸朋子訳 リブラリア選書
マクベス』 シェイクスピア 福田恆存訳 新潮文庫 
ロミオとジュリエットシェイクスピア 中野好夫新潮文庫
『西瓜糖の日々』 リチャード・ブローティガン 藤本和子訳 河出文庫
『われらの時代に』 ヘミングウェイ 宮本陽吉訳 福武文庫
"The American Philosopher" Giovanna Borradori Translated by Rosanna Crocitto
The Univercity of Chicago Press 1994
『お気に召すまま』 シェイクスピア 福田恆存訳 新潮文庫
リア王』 シェイクスピア 福田恆存訳 新潮文庫
ハムレット Q1』 シェイクスピア 安西徹雄訳 光文社古典新訳文庫
クリスマス・キャロル』 チャールズ・ディケンズ 池 央耿訳 光文社古典新訳文庫
『夜間飛行』 サン=デグジュぺリ 二木真理訳 光文社古典新訳文庫
"Recollection of Wittgenstein" edited by Rush Phees Oxford Paperbacks 1984
『人間の土地』 サン=デグジュペリ 堀口大學新潮文庫
"A Listner's Guide to Free Improvisation" John Corbett The University of Chicago Press 2015
"THE ROARING SILENCE JOHN CAGE: A LIFE 2nd edition" David Revill ARCADE 2014
"The Cambridge Companion to Percussion" Edited by Russell Hartenberger Cambridge 2016
サステナブル・ミュージック』 若尾裕 アルテス 2017
『「知」の欺瞞』 アラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン 田崎晴明/大野克嗣/堀茂樹岩波書店(再読)
『フランス現代思想史』 岡本裕一朗 中公新書 2015
『闘う白鳥』 マイヤ・プリセツカヤ 山下健二訳 文芸春秋
『みずうみ 他4篇』 テオドール・シュトルム 関泰祐訳 岩波文庫
『自由と社会的抑圧』 シモーヌ・ヴェイユ 富原眞弓訳 岩波文庫
シルクロードと世界の楽器』 坪内栄夫 現代書館 2007
『音階入門』 小島英幸 音楽之友社 1996
『マルセル・エメ 傑作短編集』 露崎俊和訳 中公文庫 2005
イワン・デニーソヴィチの一日ソルジェニーツィン 木村浩新潮文庫
『中世・ルネサンスの音楽』 皆川達夫 講談社現代新書 (再読)
『ゼロ・ビートの再発見 復刻版』 平島達司 ショパン 2004
東京大学アルバート・アイラーー東大ジャズ講義録・キーワード編』 菊地成孔大谷能生 メディア総合研究所 2006
『観世寿夫 世阿弥を読む』 観世寿夫 平凡社ライブラリー 2001
"How to write for percussion second edition" Samuel Z. Solomon OXFORD 2016
"PATERSON Rvised Edition by Christopher MacGowan" WILLIM CARLOS WILLIAMS
A NEW DIRECTION BOOK 1992
『アニメーション、折りにふれて』 高畑勲 岩波書店 2013
ハンガリーの音楽教育と日本』 岩井正浩 音楽之友社 1991
『音楽の科学ーー音楽の何に魅せられるのか?』 フィリップ・ボール 夏目大訳 河出書房新社 2011
『イギリスのユーモア』 北村元 サイマル出版会 1983
音楽史を変えた五つの発明』 ハワード・グッドール 松村哲哉訳 白水社 2011
ジョン・ケージ 小鳥たちのために』ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル 青山マミ訳 青土社 1982 (再読)

コンサート・スケジュール

2018年 2月10日(土)
Duo Improvisation
杉本拓(ギター、マンドリン
増渕顕史(ギター)
18:30 開場/19:00 開演
2000円(inc 1drink)
Otooto (http://www.otooto.jp/place-otooto)


2018年 2月14日(水)
『TPAMフリンジ:作曲作品に向き合う日本の即興音楽シーンの現在』
https://www.tpam.or.jp/program/2018/?program=japan-improvised-music-scene-today
浦裕幸 + 金沢健一 + 井上郷子
Suidobashi Chamber Ensemble:池田若菜、池田陽子、杉本拓、大蔵雅彦、内藤彩
19:00 開場/19:30 開演
2000円(予約)/2500円(当日)
水道橋Ftarri
http://www.ftarri.com/suidobashi/


2018年 2月18日(日)
Johnny Chang & Suidobashi Chamber Ensemble
Johnny Chang(作曲、ヴィオラ、ヴァイオリン)
池田若菜(フルート)
池田陽子ヴィオラ、ヴァイオリン)
内藤彩(バスーン
大蔵雅彦クラリネットバスクラリネット、アルト・サックス)
杉本拓(ギター)
19:30 開場/20:00 開演
2000円(予約)/2500円(当日)
水道橋Ftarri
http://www.ftarri.com/suidobashi/


2018年 2月19日(月)
Johnny Chang & Suidobashi Chamber Ensemble + guests
Johnny Chang(作曲、ヴィオラ、ヴァイオリン)
池田若菜(フルート)
池田陽子ヴィオラ、ヴァイオリン)
内藤彩(バスーン
大蔵雅彦クラリネットバスクラリネット、アルト・サックス)
杉本拓(ギター)
小川道子(クラリネット
Samuel Dunscombe(クラリネット
19:30 開場/20:00 開演
2000円 + 1ドリンク・オーダー
大崎l-e
http://www.l-e-osaki.org/


2018年 3月3日(土)
Songs
杉本拓(ギター、作曲)
佐伯美波(声)
19:30 開場/20:00 開演
1800円
水道橋Ftarri
http://www.ftarri.com/suidobashi/

季節の記憶(仮)

季節の記憶(仮) 

只石博紀監督の『季節の記憶(仮)』の試写に行った。
うーん、この映画について何かを言うことはとても難しい。それは実際に映画を観ればよくわかるはずである。こんな話ですよ(というか、そもそもそれすらよくわからないのだけど…)、とか、あのシーンが良かった、とかを言っても――もちろん好きなシーンは沢山あるけど、この映画について何も語ったことにはならない。私はそう思う。
でも、これだけはまず言いたい。この映画に似たものは――私の知る限り――何もない、ということと、この映画が何にもおもねていないということ。「好き/嫌い」とか「良い/悪い」とかの判断をすることの前に、「あれはなんだったんだ」という想いを観客にいだかせ、そこからそれぞれ個人がそれに対する思考を喚起させる、もっと言えばそれが映画の「中身」であるような、そういう類の作品は現在の「映画」の中にあまりない。
もうひとつ。私は、7月のおわりに渋谷で只石監督の2作品、『季節の記憶(仮)夏篇』と『Future Tenseを観た後、10月にヨーロッパ演奏旅行からの帰りの飛行機で『スター・ウォーズ フォースの覚醒』(あまりにかけはなれているなあ)を観るまで、まったく映画を観ることが出来なかった。私には長い余韻が必要だったのである。

ここから先は『季節の記憶(仮)』を観て私が考えたことを言おうと思う。それは『季節の記憶(仮)』という映画作品についての話というよりも、それを観ることによって、私が想った、想起した、思考したあれやこれやである。そうする以外にこの映画に関して何かを言うのはとても難しいからである。

まず「偶然」について。
誰しも身に覚えがあると思うけど、こんな偶然が起こるのか、ということがたまにある。私自身に起きた偶然をまず語ろう。
高校3年の時に同級生がバイクの事故で亡くなって、その葬儀に向かう時に駅でばったりと中学の同級生に会った。どうもその彼もなくなった同級生の葬儀にいくらしい。こんな偶然は珍しいので詳しく話を聞くと、彼の亡くなった同級生が運転するバイクの後ろに私の亡くなった同級生が乗っていたのだった。
こんなこともあった。もう15年くらい前の話であるが、私はコンサートのためにそこで一緒に演奏するギタリストと共に、ウィーンからベルリンに飛行機で飛んだ。着陸後、飛行機から空港へ乗客を運ぶバスに足を踏み入れた瞬間、目の前にいる女性のキャーリー・バッグの上にあった一冊の本に大変驚いた私は、隣にいた同行者にその本に視線を向けるようにそれとなくうながした。その本の著者が彼だったからである(ちなみに私はその本を彼の部屋以外で見たことがなかった)。
もっともこういう偶然はわかりやすい――だからこそ「偶然」が成立するのだけど。話のネタとしては面白いが、そんなに重要視するようなことか、とも思う。
例えば、ひとつのサイコロを10回連続して投げたところの結果が<1111111111>や<1234512345>となったほうが、<3156422346>みたいな一見ランダムな並びよりも「偶然」としての驚きが大きい。しかしどんな並びになろうが、その確率は同じである。<1111111111>的な数字の並びには、多くの人がそれを特別と感じられるという「意味」が与えられているからにすぎない。私の体験した偶然は、それが個人的なレベルにただ降りてきただけの話であって、その「意味」はとてもわかりやすいものだ。私の誕生日は12月20日なので(そういえば『季節の記憶(仮)』の試写の日も12月20日だった)、昔住んでいた家の近所に”1220”という名前のバーがあった時は喜んだものである。私はその店の写真を撮って自分のCDのカバーにまでした。つまり、そういう類の、「意味」があらかじめ用意された偶然はわかりやすいのですよ。
だが、普段は意識されない上に、それが明らかになることも少ないが、物事には必ず何らかの関係がある。私が葬式に向かうときに利用した駅、あるいはベルリンの空港でのバスの中で私が遭遇した物や事や人と私の間にもそれがあったことは間違いないのだけど、ただわからないだけなのである。
『季節の記憶(仮)』には、生のまま丸投げされている人や物や事や時間や空間の中に、意図的な行為を進入させることによって、他のやり方ではなかなかできない、物事の偶然の関係を考えさせるような映像をいくつも見ることができる(しかも、わかりやすい「偶然」までも取り込むことに成功しているのが凄い)。普段条件づけられているものとは違うやりかたで、そこに「意味」を発見していくことはとても面白い。私は思うのだけど、そういう隠された――すぐにはそれと気付くことのない――関係を突き詰めて解明しようという行為によって、自分を取り巻く世界というものがいかにあるか、ということを直感することが出来るのではないだろうか。大げさかなあ?

また、この映画は、不確定な部分を含む、ある種の実験音楽(の作曲作品の録音)に似ていないだろうか?時間が決まっていて、その中で指示されたことを人間がおこなう、ということと、ヴァージョンの制作が可能だからである。私は音楽家なのでこういうことを考えるのだけど、この映画の脚本はそのまま音楽作品の楽譜になるのではないだろうか。違う点は、もしそれが録音作品となる場合、カメラが偶然に捉える景色に相当するものが、音楽ヴァージョンにはないことである。つまりそれは『季節の記憶(仮)』という映画から映像を抜いただけのようなものになってしまう。
20年以上も前のことだが、初めてポータブルのDAT録音機を買った私はそれを持って、街の音を録音してみた。その機械とマイクの操作に慣れるためで、それ以上の深い意味はなかった。ところが、その録音を聴いてみて、普段耳にしている音とマイクを通して録音されたものの聞え方の違いに大変驚いた私は、何でもかんでも録音して、それを聴くということに熱中することになる(それを自分の音楽の素材にしようというセコイ意図はまるでなかった)。
だが、もしそこにカメラという「変数」を加えるとどうなるのか?それはより意図的になるか、非意図的になるか、どちらかなのではないだろうか?マイクは志向性の高いものを使った場合でも多くの音を拾うが、カメラはそれが向いている光景(のある一部分)しか撮ることができない。反対に言えば、無志向性マイクが果たすようなことがカメラには出来ない。しかし、この点でも『季節の記憶(仮)』は面白い。脚本(あるいは「指示」)という意図と無造作に置かれるカメラという非意図が拮抗するような作りになっているからである。これはどう逆立ちしても「音楽」には出来ない芸当である。 

只石さんは以前写真を撮っていたとのこと。私はジョセフ・クーデルカJosef Koudelkaの撮る写真、特に”Exiles”のシリーズが好きである。面白いと思うのは、多くの写真が、一体どういう状況でどういう人やものや動物が写っているのかがよくわからないことだ。この人達は果たして何をやっているんだろうかと… もっと言えば、それらの写真に写っているものは、実際にその写真を見るまでは想像すら出来なかったような光景だと思うのである。
『季節の記憶(仮)』にも似たようなところがあって、「この人達はどう関係でそこにいて、何をやっているんだろう」と思ってしまう。多くの映画はそんな余計な事を考えないでよいように出来ている。説明不要であるところの数々のルールのもとに作られているからである。
私の母方の祖父は工学者で大学教授であったが、とぼけたところがあり、テレビドラマを見ていて、「あれ、この人はさっき死ななかったっけ?」みたいなことを言うことが度々あった。「回想シーン」という約束事を知らなかったからである。
普通はこういうことは起こらない。言葉を覚えるように、そのルールが了解されていくからである。だからこそ、「それをぶち壊そう」みたいな、こう言ってはなんだけどが、「メタ」な映画も多く作られてきた。
だけど、只石さんのやりたいことはそういう試みとはまったく関係ないと思う。映画界とか、映画の歴史とか、それをいかに発展させるか等の問題から自由で、たまたま映像を使って表現したことが「映画」として観ることの出来るような作品になったのではないのかと思う。そこで表現されていることはもっと根源的なもので、そこに私は感応したわけである。「この人達は何をやっているのか」はわからなければいけないことなのだろうか? あるいは、わからないからよいのか? この答えは「映画」というシステムの中からは見つけられないと思う。だからこそこういう映画の存在意義があるではないか?

『季節の記憶(仮)』は新宿のK’s Cinemaで1月20日から26日までレイトーショーで上映されます。私も観にいきます。でも、ごめんなさい、私はこの映画を誰にも彼にも「面白いから観てください」と推薦する気にはなれないです。ただそれを必要とするだろう人に情報を届けたいという想いはもちろんある。「衝撃作」とか「問題作」みたいに一言でまとめたくもない(そういうのは出てくるだろうなあ、まあ実際にそうだから)。だから、少し長めに書いてみました。でも、全然書けてないです。

コンサート

9月2日(土)
Sextet Improvisation
池田若菜(flute)
木下和重(violin)
佐伯美波(voice)
杉本拓 (guitar)
内藤彩(bassoon)
増渕顕史 (guitar)
19:30 open / 20:00 start
2000円 
水道橋 Ftarri http://www.ftarri.com/suidobashi/  



9月13日(水)
杉本拓 (guitar)
小川道子 (clarinet)
Samuel Dunscombe (clarinet)
19:30 open / 20:00 start
2000円 1ドリンク付
大崎l-e
http://www.l-e-osaki.org/



9月28日(木)
Songs
杉本拓 (composition, guitar)
佐伯美波(voice)
増渕顕史 (guitar)
池田若菜(flute)
19:30 open / 20:00 start
2000円 
水道橋 Ftarri http://www.ftarri.com/suidobashi/