将軍  と再告知

前々から思っていた事だが、『暴れん坊将軍』のクライマックス・シーン、悪役の屋敷に乗り込んでの大立ち回りがどうも腑に落ちない。悪事を働いたかどで、黒幕の勘定奉行やその御用商人らが成敗されるのは良いとして、家臣や家来までも全員やられてしまう、というのはどうなんだろうか?家来である以上は主人と運命を共にしなければならないものだとしても、彼らの多くは主人が何をやってるかはろくに知らない、ようするにただの奉公人ではないのか。それを十把一絡げに、悪の手先として処理しているのである。もう少し情けある対処の仕方があると思うのだが。彼らひとりひとりのことを考えると、それまでのヒューマンな展開は一体何だったのだろうかと思わざるをえない。結果的に彼ら家来も----物語後半であわれな最後をとげる所謂善人と同様に----、主人の悪行の犠牲になって死んでいくのである。そこでは、家来ひとりひとりの人格は完全に無視されている。しかしながら、いちいちそんなことまで考慮にいれては、クライマックス・シーンが成立しないのも確かである。これは何も『暴れん坊将軍』に限らない。たいていの勧善懲悪ものはそういうジレンマをかかえている。しかし、違いもある。大概の悪の組織においては----例えば“ショッカー”とか“ギャラクター”では----、その組織に入った経緯は色々あるだろうが、末端の構成員ですら主人の野望をおおまかには理解している。つまり、いざという時の覚悟がある。(稀に、その組織の正体を勘違いしていたというキャラクターにスポットがあたる事があるが、そういう場合はそのキャラに「苦悩をかかえた善人」的な演出が施される事が多い。『暴れん坊将軍』においても、主人の悪事を知ったために苦悩し、無惨な最後をとげるキャラは登場する。)ところが、『暴れん坊将軍』における家臣や家来は、吉宗がある日突然現れて、自分も含め皆殺しにする日がくるかもしれない、とは夢にも思っていないのではないか。その日が来るまで、彼らは日々の仕事に精をだし、同僚と酒を飲んだり、家族と飯を食べたりしていたはずである。いくら「明日は我身」の武家社会でも、あんまりな最後ではないか?『暴れん坊将軍』は勧善懲悪ものというより不条理劇ではないのか?にもかかわらず、あのスカッとする感じは、まさに「勧善懲悪」のソレである。しかし、よくよく考えてみるとそこには闇があるのである。だが、まあ、それもよしとしよう。私が一番腑に落ちないのは次の点である。すなわち、吉宗は峰打ちなのに、御庭番は逆手の真剣で斬りつけるということ。吉宗と対戦した相手は生きている可能性があるのである。どのみち最後は切腹か死罪だろうが、しばらくは生きていられるし、なにより「なんでこんなことになったのか」を知るチャンスが残されている。それを知った上での死なら、まだ救いもあろう。さらに解せないのは、吉宗と剣を交えるか、御庭番とそうなるか、ということがほとんど運で決まるということ。より悪人度が高いものに御庭番、そうでもないものに吉宗、なんていうことは、当然のことながら、まったく考慮されてない。この無情さ、これがそれまでさんざん庶民の中で細やかな心遣いを見せる吉宗のキャラ、ひいては『暴れん坊将軍』の(少なくともクライマックス・シーン直前までの)コンセプト自体を台無しにするような気がするのは私だけですかね。


再告知します。時間がいつもより早くなっています。ご注意ください。
私はラジオ×2の曲を書きました。

2012年8月19日(日)
Simon Roy Christensen、杉本拓
開場18時30分 開演19時00分
料金 1500円+ドリンク
http://www.l-e-osaki.org/