Manfred Werder 杉本拓 duo

Manfred Werder 杉本拓 duo


10月25日(土)& 10月26(日)
水道橋 ftarri
http://www.ftarri.com/suidobashi/
open 19:00 start 19:30
料金:2000円


10月27日(月)
明大前 キッド・アイラック・アート・ホール
http://www.kidailack.co.jp/
open 19:30 start 20:00
料金:2000円


マンフレッド・ヴェルダー(Manfred Werder)との最初の出会いは2005年。本人から直接メールが来て、表参道の「ワタリウム美術館」でコンサートをやるから観に来ないか、とのことだった。私のことはラドゥ・マルファッティ(Radu Malfatti)からきいたらしい。 ところが、会場に到着しても、ここでコンサートがおこなわれるという一切のインフォメーションがなかった。チラシもポスターも、本日のコンサートは何時から何階でやります、みたいな張り紙も、まったくなんにもなし。建物をうろうろしているうちに宇波君を見つけた。ああ、彼もメールをもらったんだなと思った。宇波君は「米本(篤)さんと角田(俊也)さんも来てますよ」と言ったが、彼らはどうやってこのコンサートを知ったのであろうか。事前にインターネットで調べてみたが、このコンサートの情報はまったく得られなかったので。
結局観客は我々+数人しかいなかったが、この見慣れた光景にほっとしたことも確かである。あまりに人が多すぎると(よけいな心配だが)、台無しになる音楽もあるのでは… そんなことを最近は考える。
どうやら私は第一部をみのがしたらしい。第二部は――私の記憶が正しければ――マンフレッド(ハーモニカ)と笙の演奏家による二重奏だった。曲が始まってすぐ、これは丸八先生(ラドゥ)が前に言っていたアノ曲だな、と直感した。どういう曲なのかを手短に説明したい。このシリーズは1人から4人までの演奏者のための音楽で、譜面には演奏者の人数によって1から4までの数字、あるいは点(・)が横に5個、縦に8個ランダムに並んでいる。1と書かれているところは演奏者1が、2と書かれているところは演奏者2が(これは事前に割り当てられる)、6秒の持続音を出したら6秒沈黙することを指示している。(・)は誰も音を出さないところで――すなわち12秒の無音――、これが結構多い。1ページは(約)8分になる。一回の公演ではこのような譜面を何枚か演奏する。15枚=2時間やったこともある。ストップ・ウォッチは使ったり、使わなかったり。演奏者は、一度決めたら、演奏終了まで音色もピッチも変えることができない(このシリーズは何度か演奏しているが、その時はいつも全員のピッチをそろえていた)。様々な楽器による、ある特定の音が現れては消える、ただそれだけの音楽。言葉で説明するとそうなるが、それではこのシリーズの曲の本質をまったく伝えていないことになる。とりあえずは、CDを聞いてもらうのが手っ取り早い。
マンフレッドはまた違う傾向の音楽も作曲している。所謂テキスト・ピースだ。マンフレッドが最初に来日した時、私は彼の手になるふたつの作曲作品の譜面をプレゼントされた。どちら見てくれはきちんとした装丁された「楽譜」であるが、ページを開くとそこには幾つかのセンテンスが書かれているだけだ。三人の奏者にための”stueck 2004 3”の譜面に書かれているのは次のようなことである。
“まず、全員共通のピッチを決める。演奏時間は未定。時計を見てはいけない。3秒から7秒ほど持続する音、それが1回か2回、あるいは3回、一回の演奏時間内に現れる。ただシンプルに”
奏者に「表現」が求められていないことは言うまでもないが、では、一人の奏者がやるべきことはただシンプルに音を出すことに集中することだけかと言えば、それだけでもない。譜面には「各奏者が一回ずつ音を出す」とは書いてない。ひとりの奏者が2回音を出してしまえば、どうしても音を出さない奏者が存在してしまうことになる。場合によっては、ひとりが一回だけ音を出して終わり、ということだってありえなくはない。演奏時間も、ほんの数秒から無限まで、様々な長さが考えられる。面白くないですか?
マンフレッドにはこういった簡単な指示だけによる作品が多くあり、私もその幾つかを――時には作曲家本人を交え――様々な状況で試してきたし、また観客としても立ち会ってきている。うまくいくこともあれば、まったくだめなこともあった。所謂即興に長けた人にはマンフレッドの曲の演奏は向いていないと思う。ある種の滅私奉公でないとだめなのである。そうしないことには彼の曲が潜在的に持つ奥深さを感じることはできない。
もうひとつの”2005 1”と題する曲の譜面にはただ以下の言葉が書かれているだけである。

Place
Time

( sounds )

「これ、いったいどうやって演奏するの?」と言いたくなる曲だ。というか、これはそもそも演奏の仕方を指示しているのであろうか?
去年、私はマンフレッドと角田俊也さんのコンサートを観にいった。そこで演奏された曲(なのか?)のひとつにこんなのがあった。
ふたりの前には机があり、その上には曲のスコア、それとトカゲと蜂のミイラが置いてある。角田さんによると、マンフレッドはpcのファンを動かしていたらしいが、私はそれに気づかなかった。意図的に出した音はたぶんこれだけだろう。演奏時間は20分、あるいは30分くらいだったか、その間にマンフレッドがピルケースのようなものから乾燥した植物をスコアの上にばらまいた以外は、特に何事もおこらずに曲は終了した。
これはどう考えても時間に依存していない音楽である。言葉で説明しても――あるいは実際に体験したとしても――、「だから何?」と思う人は多いだろうが、私は大変に貴重な体験した。いや、違う。それは「体験」とは少し異なる何かとして残っているのである。
最後にマンフレッドの意外な面を。彼は極めて高度なテクニックを持つピアニストでもある。チューリッヒの彼の家で超難曲と言われるクセナキスの「ヘルマ」の録音を聞かせてもらった時は正直びっくりした。半年間この曲の練習に集中したとのことであった。ピアニストとして参加した録音物にはHAT HUTから出ているジェームス・テニー(James Tenney)の”Bridge & Flocking”がある。
以上、マンフレッドのことを簡単に紹介してみた。ここ数年は、連絡も取り合っているし、実際に会うこともあったが、一緒に音楽は作っていない。どんな音楽が出来上がるのかとても楽しみだ。