今日『松屋』で牛丼食べてたら、いつも以上に店内でかかっているBGMにいらだちを感じた。自分の中の何かがキレ始めているのかもしれない。こんなアホみたいな音楽を一体誰が聞いているのか?もちろん誰も聞いていない。もし流れている音楽がもう少しマシなものだったらどうだろうか?何でもいいが、例えばバカラックだったとしよう。私は個人的にはバカラックは好きだが、それでもイヤな感じはするだろう。食事をする時に音楽は要らない。
家の近所に手打ちの旨いソバ屋があるのだが、ここで小さな音量で流れているジャズにも私は我慢がならない。よくある似非高級店の手口である。「うちは他とはちょっと違うのよ」という傲慢さが見え隠れしてしまうのである。勘違いしているんだよな〜。まあ味は良いし、食ったらさっさと帰れば問題は何もないが、長時間は居れない。テレビやラジオでも流しているほうがはるかに良心的である。
では、酒を飲んでいる時はどうだろうか?私は、基本的には、音楽はなくてよいと思う。会話の空白を埋めてくれたり、話題を提供する、という利点は認めるが、音楽なしでそれらが出来るのであれば、ないほうがいい。とにかく年がら年中音楽がかかっているより、たまにそっと何か気の利いたものを(その場のムードに合わせて)かけてくれる店のほうが私は好みである。ジューク・ボックスみたいのは良いかもしれない。音楽を聴く/かけるという覚悟があるじゃないですか。垂れ流しはいやだ。
しかし、これだけ街には音楽が流れているが、みんな聴きたいのだろうか?いや、そんなことはあるまい。街とは音楽が流れているもの、ただそういうものになっているだけの話である。自分に関して言えば、私はある特定の音楽が好きなのであって、その他のものには用がない。これが基本である(たまに基本はくずれるが・・)。ところが、世の中のほぼ100パーセントの音楽は私にとって用のない音楽である。そうは言っても、それらと完全な没交渉にいたる、というのもどうもあまり人間らしくない。嫌なものを避け、好きなものだけで身の回りを固める事は問題である。
よくアナログレコードの方が音が良く、CDはよくない、iPodはけしからん、みたいな議論がある。確かにレコードは音が良い。それはそう思う。音を伝えるメディアはだんだんとひどい物に移行している気がしないでもない。しかし、レコードが発明される前はどうだったのか?西洋世界ではメディアといえば楽譜だったはずである。楽器はソフト(楽譜)の再生装置でもあった。音は直接楽器から出ているわけだから、音だけに関して言えば、これ以上良い音はありえないはずだ。なのにここまで引き返そうという話はあまり出てこない。
楽譜を読んだり、楽器を演奏するというのはそれなりに修練と技術を必要とする。ところが録音・再生というのは今日ますます容易なものとなってきている。音楽を体験するのに特別な技術はいらない。これは良いことなのか悪いことなのか?たぶんどちらでもなく、それはただそれだけのことである。
レコードの時代から街には耐え難い音楽が流れており、それはこれからも続くだろう。というより、音楽とは本来「耐え難いもの」という宿命を背負っているのではないだろうか。音楽があろうがあるまいが音は必ずある。この音に我慢がならないと別の音や音楽でこれを打ち消そうとする。これの繰り返しなのではないのでしょうか?