という本を去年の3月に買ったのだが、まだ半分くらいしか読めていない。ちよっと大型の本で重い。なので、移動中の電車とかで読む気にはならない、というのも理由のひとつか。重いものをカバンに入れて持ち運びたくないしね。
なので、家で、横に辞書を置き、少しづつ読んでる。John Ashberyほど難解ではないが、やはり、よくは分からない。言葉を知らないというのもある。やはり詩を読んでいると自らの英語力の限界が身にしみる。しかしそれだけではない。
日常をただ描写しているようにも見える詩なんかでも、内観と物象が入り混じってて、一筋縄ではいかない。シンプルに見えて実はそうじゃない。あと、どことなく意地悪な感じと下品さが混ぜ合わさったような表現もある。ケネス・アンガーの映画を見た時に感じたものと何かが似ている。ジャン・コクトーにも近いものがあるかもしれない。
何か出来事を書くにしても、その出来事は自らが選んだところの出来事、自らが作り出した出来事、またそれによって日常が自らのために作り変えられるところの出来事でなければならない。そうやってひとつの生き方は居場所を持つ。そのために詩がある、みたいな感じを受けますね。
この感じは同年代に活動していたケージやフェルドマンの音楽とは全く肌触りが違う。しかし、ラウシェンバーグとかジャスパー・ジョーンズとかの美術には近いものを感じないでもない。私はこの辺の美術もよく分からんからなぁ。何でケージやフェルドマンはこの界隈の美術家や詩人と交流があったんっでしょうね。根底的なものが違う気がするんだけど。もっとも現在の視点でみればそう見えるだけであって、当時はそれらの芸術がどんなものかは分かってなかったんでしょう。芸術の発展を形式の発展/自由化と考えれば、今までなかったような表現形式は十分な刺激になる。ケージがもし本当に音だけにこだわっていたのであれば、絵画においては視覚の対象物の新奇さを求めていたのかもしれない。
フェルドマンが面白いことを言っている。
Well, let's say Cage's relation to Duchamp is completely misunderstood. So they're the otherside of the coin. I mentioned it to Cage, I mean just in conversation. And he didn't say anything. He just listened. They're the opposite. For example, the interest of Duchamp for so many young people is that he took the experience out of the eye, out of the retina, and he made a concept. Cage took out of the past conceptual nonhering aspect, formal aspect of putting music, and he put directly to the ear.
"MORTON FELDMAN SAYS" p54
私も同じことを思っていた。
フェルドマンはオハラと仲が良かったみたいだけど(それで読んでみようかという気になったんだが)、共通点がどうも見出せないなぁ。いや、そういう共通点みたいのはなくて良かったんだろう。同時代に何か新しい表現があればそれが刺激になった。簡単に言えばそんな感じか。大体フェルドマン(やケージ)の音楽のような詩があるとすれば、それは一体どういうものなんだろう?カミングスの詩には何かケージ的なものを感じる。ウィリアム・カーロス・ウィリアムスの詩も同類の感じがするのだが、これは誰も言わないなぁ。ある詩とある音楽に似たものを感じるのは一体何によってなんでしょうね?