色々思うこと

マンフレッドとステファンを交えてのキッドアイラックでの三日間が終了した。こういう音楽は普通にただ聴いて楽しめるような類のものでないばかりか、演奏者にも観客にも緊張感やある種のストレスがつきまとう。しかし、そういった困難さがあるからこそ価値があるのではないだろうか。それについて考えた。
最終日に我々(宇波拓、ステファン、杉本)はマンフレッドの"three performers"を80分演奏した。その80分の6〜7割は音がなく、楽器が奏される時でもその音量はとてつもなく小さくて、我々演奏者ですらほかの2人が本当に音を出したかどうか分からなかったことがあるくらいである。会場にいた観客全員に音が届いていたのかは疑問だ。ほとんど聴こえなかった人もいたかもしれない。お客さんのひとりが最後の一枚になった譜面を見て「やっと終わるんだ、よかった」と思ったことを終演後に私に打ち明けてくれたが、私もいつもこの曲を演奏するときは最後の譜面を見て同じことを思っていた。しかし、今回はついにそれとは違う境地が開けてきた。それについては後で述べるとして、とにかく、どうしてもある程度の(肉体的/精神的)苦痛、それと人によっては何がいいんだか分からないというストレス、そういうものを切り離すことが難しい音楽なのである。
ついでに言うと、私自身の作品でも、自分で演奏するときはもちろん、人に演奏してもらってそれを聴いている時ですら同じような困難を感じるのである。ただ単純に、気持ちよかったり、美しかったり、楽しかったり、または興味深いものであったりと感じたことはほとんどない。さらに言うと、私にとって重要な音楽はみんなそうである。困難さが必ずある。幾つかの例外を除いて、私はそういうものにしか希望を見出せなくなってきた。
多様性。音楽の世界に限っても私はこれが信じられない。そんなに様々な音楽が本当にあるとは思えない。音楽の種類の違いは(おおまかな音楽の違いも、同一ジャンル内の些細な違いも)、それを選ぶ個人の趣味志向によって対応しているだけであって、扱われ方に大きな違いはない。装飾品か、慰みを与えてくれるものか、薬か、ひまつぶしのネタか、知的好奇心の対象か、そんなもんではなかろうか。人がA(の音楽)の方がBより優れているという時、それはその人にとってAのほうが、例えば、美しく感じられるか(装飾品として)、気持ち良く感じられるか(慰安として)を言っているのではないのだろうか。もちろん質の問題はある。手打ちの高級そばと立ち食いそばでは明らかに高級そばの方が質が高い。にもかかわらず立ち食いそばを選ぶ人もいるのである。また、高級そばにも様々な質があり、それは立ち食いそばでも同様である。経済的な問題が選択肢の幅を狭めているということは無視できないが、少なくとも同一のジャンル内では何を選ぶかは趣味指向にかなり委ねられている。音楽も同様である。ここを突破できるのだろうか。
一つの方法は音楽を使って別の何かをやることである。これはメッセージを音楽によって伝えると言うことを意味しない。今日の音楽はますます音楽のための音楽になってきている。そしてその役割は先に書いた通り。それらにあてはまらないものを作ることが可能なのは音楽の形を借りた違う何かではないかと言う気がする(かつての音楽とはむしろそういうものだったのではないのか)。このやり方から生まれるものは様々な外見を持つだろうが、それらひとつひとつがジャンルを形成するようになっては失敗だろう。ここで問われるべき質は音楽におけるそれではない。しかし、そこから生まれるものが真の多様化に結びつくのかはまだ分からない。
もうひとつは私が希望を見出している困難を伴う音楽である。もちろんそこには困難だけがあるのではなくて、笑いもあれば、ばかばかしさもある。何かを思考してしまうこともあれば、くつろぎもある。例えば初日の大蔵雅彦の作品の演奏中に私は笑いをこらえるのに必死だった。何かが私の心にヒットしたわけだが、もし本当に笑ってしまえば全てが台無しである。ひょっとしたらこの曲の本質的な部分かもしれない「おかしさ」までもが消し飛んでしまう。おかしいのに笑えない、これだって苦痛である。さらに演奏をしなければならなくて(2分近くクォーター・チョーキングをキープしているのは指が痛くてしんどかった)、そうでないときはなるべく余計な音を出さないようにじっとしていなければならない(これはお客さんも同じだが)。それでも何故かリラックスはしているのである。こういう経験は実に得がたい。苦痛あってのくつろぎ、厳しさあってのばかばかしさである。
ところが、正直言って、マンフレッドの"three performers"を演奏している時は苦痛と厳しさのほうが勝っていた。似た曲を観客として聴いた時はそういう感じはしなかったので、演奏者としての問題なのだろう。この曲を演奏する時はいつも最後のページを待ち焦がれたものである。ところが、今回はそういう気持ちが途中から消えた。やはりこの曲にも相当にばかばかしいものがあるな、と途中から思えてきて、そこから後は何時間でもいけるような気がした。”ばかばかしい”というのは悪い意味で使ってないし、反対に良い意味でも使ってない。ただそういう要素があったということである。
この三日間で演奏したものはどれも様々な種類の感情や感覚や苦痛や安逸を呼び起こすの音楽なのである。その意味ではこれらも音楽的な文脈だけで理解されるようなものではない。他の音楽から簡単に得られるようなものはほとんど何もないと言えるし、その上に困難さに直面しなければならない。人気が(あまり)ないのはおおいにうなずける。しかし、こういった管理されてない世界があるということが最大の魅力なのである(少なくとも私には)。”未開拓の世界”が潜んでいる音楽なのであるが、こればかりはライブを体験してもらわないと分からない。
あと今回の三日間で思ったのは、全ての曲が違うということ。違いと言うのは曲の構造や形式だけの話ではなくて、それが呼び起こすものも含めての違いである。この違いは巷の音楽にはなかなか見られないものなのだが、信じてもらえるだろうか。