天狗と狐 2

”天狗と狐”とは宇波君とのデュオ・プロジェクトだが、特に何をどうやるとかの話し合いも(楽器の選択をのぞいて)あまりなく、自然に内容が少しづつ変化している。最初はギター・デュオ。これは3回くらいやったのだろうか。次がコンピュータとメトロノーム。その後、手拍子や身の回りのものを叩いたり、マンドリンを使ったりして、だんだんとわけがわからなくなってきた。
今回リリースするCDはコンピュータ/メトロノーム・デュオとマンドリン(+色々)デュオの2曲を収録。やっている時はほとんど意識してなかったが、このデュオは私が普段やっている音楽と少々毛並が違うと思う。音数の多さは音響的即興時代の演奏より勝っている気がしないでもない。音量も決して小さくない。リズムもあればメジャー・コードも使っている。我々の界隈ではあまりない掛け合い的な部分すらある。だからと言って、別にタブーをぶち壊そうとか、何か新しい即興をやろうとか、そういうのもなく、まあなるようになった結果というか過程なわけです。たまたまこうなったと。もう同じような事はできないだろう。やりたくても出来ないし、やりたくない。このCDを気に入った人がいても、もう同じような音楽はライブでも別のCDでも聴けない。変化してるから。そういう意味ではまさに即興。ついでに言えば、結果がどんな音楽になろうが知ったこっちゃないと、そういう態度で私はこのデュオをやっているかもしれない(全般的に私の自分の音楽にたいする態度はそうだが)。
大概の即興演奏家は、経験に比例して、演奏技術とかうまくいくツボみたいのが身に付いてくるが、そのことで多くのものを失っているとも言える。社会的な活動をする限り、音楽もそこに属している以上、経験をつむことは重要だが、問題はそれをどう生かすかだ。
ひとつの新しい即興の型を作ろうなんて気はもう私にはさらさらない。即興というのは型から逃れるためにあったのに、それが型を持つことによって受け入れられる状況というのはなんだか可笑しい。そういうことはもやはどうしようもないことかもしれないが、それにすんなり従うのもどうかと思う。人は良い(クオリティーの高い)音楽を聴きたがったり作りたがったりするが、まあそれは当然だとは思うが、それだけでは味気ない。大概の音楽はひとつのオブジェのようなものとして、つまり作ったり享受出来る何かであるかのように機能しているだが、そうであるから質が問われるのであって、そうでない音楽のあり方もなければいけない。こちらの方に私は関与したい。

明日のライブ、手ぶらで挑もうと思ってましたが、その手の気負いもどうでもよくなってきたので、何か持っていくかもしれません。