観客数の問題

この前の”天狗と狐”のライブは本当に楽しんだ。本当の即興だったと思う。何も決めず、打合せもなし。私は大した考えもなしにトライアングルとか拍子木とかの打楽器類を持っていたところ、宇波君はダンボールと小型ライト、それにギターをかかえて登場。リハ(と言っても4〜5分だったが)の間になんとなく自分の中で方向が定まってきた。結局、打楽器を使って音は鳴らしたが、私の主な役割は宇波君のライトが映し出す影を異化するものになった。時には自らが被写体になり影を作り、時にはマイクスタンドとかイスを動かしてそれを投影させたり。コレのどこが音楽なのかと言われればそれまでかもしれないが、宇波君も日記で書いているように、それはやはり音楽家の発想が元になっていて、実際に音楽的時間がそこにあったと自負している。インスタレーションでもなく、ましてや演劇でもなく、音楽、しかも即興のそれであったと。宇波君もギターを弾いてたし、実際に音はあったけど、それらと視覚的要素がともに音楽を成立されるものとして作用してたんじゃないか、そんな気がしてならない。もっともやっている側と聴いて(観て)いる側では違うのかもしれないが。ともかく、音楽を成立させているのは音ではない(音だけではない)、という思いが個人的にはさらに強まってきた。とにかく、面白かったな。このデュオが自分の活動の中でどういう役割を果たすのか、ちょっといつもやっている表現とは違うなとは思いはするが、そういう別の方法が持てたということ、しかもそれが新鮮で興味深いこと、それらがどう発展するのかを見守ってみたいと思う。
話は変わって、この時のライブもそうだったが、お客さんがあまり来ない。今に始まった話ではないが、だんだん減っているような気がする。この辺は微妙な話で、50人が30人になれば、それは減ったなぁ、と思うかもしれないが、私の場合は規模が違う。もともと少ないのである。不況(だけではないだろうが)の影響でお客さんの数が減っている、みたいなことをよく耳にはさむが、もともと少ないお客さんが減ってもあまり実感はわかないものである。10人が8人になろうが、たまたまそうだったんじゃないかとやり過ごしてしまいがちである。もう何年も少ない観客の前で演奏する、そういうことに慣れてしまっているから。日本でも海外でも状況は同じで、フェスやイベントをのぞくと、だいたい10人前後(時には2〜3人だったり、ゼロだったり、なにかの間違いで20人以上来ることもあったが)、そんな感じで続いているのであるが、ここに来て気づくのは、その数がさらに減っているということ。これはやばいな、とは思っても、しかし、やはりどうしようもない。面白そうなライブに人は集まり、つまらなそうなのには来ない、世の道理はそうである。人が集まるところはさらに人を呼び、少ないところはより少なくなっていく。だったら面白そうなものをやればいいわけだが、そういうわけにはいかない。何故なら、私はあえて、積極的に、つまらなそうなものをやっているからである。そうする理由は、一見退屈で楽しみどころがないようなものにこそ真に深みがあるのでは、という私の価値観に由来する。楽しみとは与えられるものではなくて見つけるものである。ならば簡単に楽しめないものの方が表現としては上品なのではないか、私はそう思うのだが、やはりそんなものに人が集まるわけはない。当然である。むしろ、集まりすぎれば私は危機感を感じるだろう。それでも、経済行為として表現を考えると、この状況はなんとかしなければと思う。毎回40〜50人が来るようなことを私は望んでいない。それはむしろ望ましくない状況でさえある。そうなった時、私は自分のやり方に疑問を感じるだろう。しかし、反対に、一桁が続くというのも、それはそれで疲れるものである。幸いにも毎回一桁(というのは平均観客数が9以下であるということ)という状況にはまだ(ぎりぎり)いたってないが、それが近い未来に起こりうるだろうことは十分に考えられる。ここは何とか死守しなければならない。その上でささやかな希望を言えば、平均20人くらい来てほしい。これが難しいのは承知の上だが。