”問題は自己言及するシンボルによってさらに複雑になる。自らを意味(denote)するシンボルは、それ自身がその実例であり、それ自身によって、その意味とされ実例とされる。"word"(という語)はそれ自身に関係づけられ、よって、"short"(短い語)であり"polysyllabic"(多音節)であるが、"long"(長い語)や"monosyllabic"(単音節)ではない。"long"は"short"のサンプルとなり、"monosyllabic"は短い語を意味し、そして"short"は短い語を意味しながらその実例ともなっているのである。”(Nelson Goodman "Languages of Art" p59)

↑に関係したことを書こうと思ったけど、何も思いつかなかった。読書中に付箋したとこを訳してみようかなと思って、やってみたのはいいが、それだけになった。
さて、私は今音楽を聴きながらこの文章を書いている。音源は同じコンピュータに入っているデータで、スピーカーもコンピュータ付属の直径1センチくらいの代物である。慣れというのは恐ろしいもので、これで十分なんじゃないかという気がしてきた。もう長いことまともな音楽再生装置を所有してないので、それであまり音楽を普段聴くような気はしなかったんだが、たまに、単純作業のバックグラウンド・ミュージックとしてコンピュータから音を流していた。それが続いて、音質とかはどうでもよくなった。もう少し専門的に音楽を聴くときはポータブルCDプレイヤーとヘッドフォンを使用している。自分の音源をチェックするときもそう。しかし、ヘッドフォンを使用して音楽に向き合うと、私は嫌いじゃないが、どことなく学者が同業者の論文を読んでいるような聴き方になる。細かいことが色々気になるし。やはり、もう少し気楽に同業者の仕事を楽しみたいなとも思うときも多々ある。(多少は)まともなスピーカーで音を楽しみたい、というのが本心です。だけど、まともなアンプとかCDプレイヤーとか、そういうオーディオ一式があるというのも、もっとも買う資金がないが、威圧感があって好きじゃない。広い部屋とか音楽スタジオのようなところなら問題はないかもしれないが、せまいところで「音楽」に占拠されるというのは、どうも心が落ち着かない。何か音楽を聴かなければいけないんじゃないかという強迫観念が芽生えそうな気がして怖い。最近は、やはり何も音楽をかけてないときが一番落ち着く。その状態が一番自分のやっている音楽に近いし。「無音(楽)」は最強である。しかし、私としてはただの「無音(楽)」よりいくらか意味がある音楽が作りたい。