『倍音奏法特別編』倍音から考えるブルース・スケール

最初にギターの倍音奏法について書こうと思った時、その内容は具体的なもの──つまりどうやってそれらの音をだすか──になる予定だった。ところが、書いているうちにそうはいかなくなってきた。色々と考えなければいけないトピックが次々と浮上してきたのである。それら「副産物」トピックのひとつが、ブルース・スケールである。このスケールについては様々な見解があり、いまだに正解らしきものは出ていない(ということでいいのでしょうか?)。そこで、私もひとつの仮説を公表することにした──「倍音から考えるブルース・スケール」である。
私の理論には、勘違いや、間違い、それに計算間違いも含めて、どこかおかしなところがあるはずなので、批判なり反対意見なりが聞ければ幸いである。ただし、「ブルースは理屈じゃない」みたいなイチャモンはちょっと困る。私もそれを承知の上で書いているので。

若尾裕さんがどこかで──それが思い出せないだが──「ブルースはメジャーの3コードの上を、ギターがマイナー・ペンタトニックで弾く不思議な音楽である」というような事を書いていた。なるほど、確かに不思議である。何の疑問もなくそのスケールを使っていたが、確かに違和感はない。だが、若尾さんの発言にはひっかかるところもいくつかあった。ひとつは、それは本当にブルースなのか、ということ。もうひとつは、所謂マイナー・ペンタトニックで弾くことが席巻しだしたのは40〜50年前からの話で、白人のブルース・ロックがそれを合理化する前は、歌もギターも様々な音を使って抑揚的な表現をしていたはずだ、というものである。

ブルースが誕生したとき──と言っても、それは何年何月何日というようなものではなくて、もっと長いスパンで考えるようなものであるが──、彼がもっていた楽器はなんだったであろうか? それはギターである、と考えるのは不自然ではないだろう。結局、ブルースというのは歌とギターによる音楽である。まあ実際にどうであるかはどうでもよい。ここに一人の男がいて、彼はギターをつま弾きながら、何かに耳を傾けている。そんな様を想像してみよう。
彼が耳を傾けていたもの、それは倍音ではないだろうか? そう仮定する。
一本の弦を弾いた時、その楽器から聞こえてくるものは、その基音だけでなく様々な整数時倍音である。もちろん高次の倍音はひとつの音高として聞き取るのが簡単ではない。だが、低次の倍音はそうではない。例えば、ギター5弦Aを弾いた時、その低次倍音は、基音のAのオクターブ上のA(第2倍音)、その完全5度上のE(第3倍音)、基音から2オクターブ上のA(第4倍音)、その長3度上のC#(第5倍音)、その短3度上のE(第6倍音、第3倍音のオクターブ上)と続く。この一音(一弦を弾いた音)の中にドミソが含まれているのである(第4倍音、第5倍音、第6倍音)。これはだいたい聞き取れる。問題は第7倍音のシb(5弦の場合G)である。
結論のひとつを先に言うと、私は、ブルースはこの第7倍音を特化することで生まれた音楽なのではないかと思っている。ブルースの7thはこの第7倍音であるという説があるが、それはほぼ間違いないのではないだろうか? 問題はそれが実際に聞こえるかどうかである。ギターの場合、ブリッジの近くで弾くと高次倍音が発生しやすい。また低音弦のほうがそれを聞き取りやすい。強くブリッジの近くを弾くと、その音が聞こえるはずである。ギターにもよるのだが(実際聞き取りずらい楽器もある)、またどういう加減でそうなるのかは分からないのだが、第7倍音が他の倍音より強く聞こえることすらある。第7倍音は聞こえる。
さて、なぜ第7倍音を特別扱いしたのだろうか? それはその音の性質によるところが大きいのではないだろうか。つまり、5弦のAの場合、その第7倍音のGは平均率のそれより約31セント低い(1)。これは西欧の音階にはほとんど登場しない音である。これを核にすることで、ブルースの特異性は際立つことになる。十分にありえる話だと思うのだが… 
彼は、5弦Aをつま弾くことによって、そこからA、C#、E、Gの音を聞いたのである。

次に、5弦Aの倍音列からA、C#、E、Gを引き出すのと同様のやりかたで、4弦DからはD、F#、A、Cが、6弦EからはE、G#、B、Dが引き出せる。それぞれ、I 7 IV7 V7の構成音である。みっつの開放弦(5弦A、4弦D、6弦E)の倍音から、Aのキーにおける、典型的な12小節のブルースを構成するコードが出揃うことになる──きまぐれにAのキーを選んだわけではない。つぎにこれらのコードを構成するピッチをオクターブに収めると次のような音階になる(五線譜で書くとより分かりやすいのだが、スキャナーを使えるような環境にいないので)。


A(1)、B+4(9/8)、C-33(7/6)、C#-14(5/4)、D-29(21/16)、D-2(4/3)、E+2(3/2)、F#-16(8/5)、G-31(7/4)、G#-12(15/8)、A(2/1)


音高のあとの数字はその平均率の音との差をセントで、( )の分数は基音とその音との比を表したものである(2)。
9/8だとか7/6だとか書かれてもピンとこない人も多いと思う。しかし、これも倍音を基準に考えると分かりやすくなる(3)。例えば9/8(9:8)は第8倍音の音高に対する第9倍音の音高と考えれば、それはAに対するB+4である。7/6は第6倍音と第7倍音の比、すなわちE+2とG-31の比であるから、基音AからだとそれはC-33になる。
21/16のような場合はどうすればよいか? この場合は3/2×7/4×2/1(2/1はオクターブの中にそろえるため)と考える。3/2はE+2、それの第7倍音だからD-29である。
さて、これは所謂ブルース音階とかなり近いのではないだろうか?一見すると長調短調を混ぜ合わせたような音階にはなっている。ところが、短音階の構成音に見えるC-33とG-31はそれぞれ、4弦と5弦の第7倍音から導きだされたものである。
別の視点から見てみよう。この音階は所謂5リミットの純正律(4)にC-33、D-29、G-31を足したものである。ここからC-33、D-29、G-31をとりのぞくとそれは”ドレミファソラシド”になる。左のみっつは第7倍音に由来するので、全体のスケールは7リミットの純正律のひとつということになる。5リミットというのは音階を構成する比に使われる最大の素数が5であることを意味する。具体的には 3/2──ピタゴラス音律──と5/4 の組み合わせからなる(5)。これに7/6、21/16、7/4を加えたものが上の、(私の考える)とりあえずのブルース音階である。ここには短音階の構成音は存在しない(6)。
実は、この音階には重要なある音が欠けている。ブルーノートと言われる音、b5th──今回の場合で言うとEb──である。これは絶対に外せない音である。近い倍音は5弦Aの第11倍音のEb-49であるが、これだとあまりにもどっちつかずだ。また第11倍音を聞き分けるのは容易ではないと思う。ピアノではともかく、ギターではかなり難しいのではないか。少なくとも私は出来ない。
しかし、そうでないとも言い切れない。私は飲み友達がやっているロック・バンドに参加する時にスライド・ギターを弾く事が多いのだが、ブルース的な曲を弾く時に、このb5th-49(に近い音)を積極的にフレーズにおりまぜてみたが違和感はなかった。だが、恐らくこれに近い音はなんでも良かったのだろう。b5thは、ちょうど主音の裏にあたり、アウトスタンディングな音である。ブルースを構成するみっつのコードのどれとも緊張感のある関係を持っている──つまりそれらの構成音のどれかとb5thは半音の関係にある。ブルースは、7thを取り入れたことによって、コード・チェンジの際の緊張感を高めた。I 7←→ IV 7、 I 7→V 7、V 7→ IV 7とコードが変わる時に、各コードの構成音は次のコードのそれらみっつと──都合良くそれらを転回したばあい──半音(時にはそれよりも狭い)の関係をもっている(7)。ここに、さらなる緊張感を演出するために、b5thが登場したのではないか、というのが私の考えである。よってそれは、倍音由来であるかもしれないが、より緊張感を高めるという具体的な効果をねらったものとして後から登場してきたのではないか。減5度(あるいは増4度)は西欧の音楽が忌み嫌ったインターヴァルであることをここに付け加えてもよいだろう。あらためて、この音は重要である。ただし私はこの音を比でもセントでも表す事が出来ない。減5度の比率が7/5であれば、それはEb-17になる。それとも11/8のEb-49か? しかしブルースのb5thはそれら比で表せる音程と少し性格が異なるのではないだろうか?
もうひとつ加える音があるとすれば、それはFだろう。D-2における、Aに対するC-33の音である。これは恐らく14/9、すなわちF-27だろう。これは3弦の第7倍音である。これを採用することはそこに転調を認めることでもある(3弦G-4はDを主音にした場合4/3なる)。もっとも、本来ブルースはコードが変わる度に転調をしている音楽なのではないだろうか? こう主張する人は多い。私もそのひとりである。だが、そこでおこなわれているのはありきたりの転調ではない。ここでまた私の仮説の結論のひとつを述べる必要性が出てきた。ブルースは確かに転調している。しかし、転調の度に上に書いたスケールが移調していくのは面倒くさいではないか? それはそうだ。そんなことをいちいち考えては歌なんて歌えないし、ギターだって弾けない。それにそんなにブルースは複雑か? おっしゃる通り、ブルースはある意味では複雑であるが、別の意味ではそうではない。それは感覚的な、しかしそこに抑揚を含んだ極めてセンシティブな音楽である。

実は(私の考える)本当のブルース・スケールは上に載せた音階ではない。それはひとつの指標としてはブルース・スケールと言えるだろう。だが、実際に歌われているもの、あるいはギターで弾かれるものは、もっと自由にそのスケールの中を泳いでいるし、グライディング・トーンも多用されている。これらの音を仮に「イントネーショナル・トーン(intonational tones)」と呼ぶ事にする。だがそれらがとりとめのないものにならないように、それを可能にする、あるいはそれを豊かに聞かせる、ひとつの音律(とでも言えるもの)が存在しなければならない(その音律とイントネーショナル・トーンは、時に同じ音を共有し、その境界がはっきりしているわけではないにしても)。
冒頭の若尾さんの発言に持った違和感の正体はこれだ。本当は、メジャーの3コードの上をマイナー・ペンタトニック・スケールが走っているのではない。むしろ逆で、マイナー・ペンタトニック・スケール──のように感じられる「あるもの」──の上を様々な抑揚的フレーズ、すなわちイントネーショナル・トーンが走るのが本来のブルースなのではないか? これが私の考えである。この「あるもの」をあぶりだしてみよう。

もう一度(私の)とりあえずのブルース・スケールを見てもらいたい。ここから所謂ペンタトニック・スケールに近いものを作るにはどの音を除けばいいだろうか? C#-14、F#-16、G#-12、B+4のよっつである。
B+4をのぞくみっつはその比に素数5が登場している。つまり、5は長短の3度を作る比を作るものなので(8)、今回の場合、A7、D7、E7を構成する和音からそれぞれの長3度音程が消えることになる。これは実に面白い事ではないだろうか? ラ・モンテ・ヤングは、素数5が比に表れる音高を西欧の音楽の典型的な特徴として、自らの音律に取り入れることを拒んでいる。それと同じ事がおきている事になる。西欧の音楽は素数7(と第7倍音)を無視し、長短の3度をその核に採用した。ブルースでは逆で、前者を優遇し、後者をないがしろにした。いや、長短の3度に関しては、それは言い過ぎである。そうではなくて、それをフリーにした、と言うべきだろう。要するに、短3度と長3度の間を自由に行き来することを可能にさせるためにそれらの音を基本となる音階から外したのである。これにEbを加える。こうして(私の考える)ブルースの基本音階が出来た。これをブルース音律とよぼう。それは、短3度と長3度の間だけではない、あらゆる抑揚を許す性質を持っているのではないだろうか? では、あらためてそのスケールを書き出してみよう。


A(1)、(B+4)(9/8)、C-33(7/6)、(D-29)(21/16)、D-2(4/3)、(Eb)(?)、E+2(3/2)、G-31(7/4)、A(2/1)


これは、Ebをのぞくと、素数2、3、7だけで構成されている音階である。恐らく、Ebは厳密な意味ではブルース音律の構成音ではない(その意味でこの音はかっこに入っている)。その音が恐らくは倍音由来でないというのが、理由のひとつだ。ただ、それはブルースにおける特徴的な音なので、その音律のメンバーとしても良いのではないのかと考えているわけである。
あれ、B+4(9/8)が残っているじゃないの、と思われるであろう。実は、私はこの音を外したくない。その理由はこうだ。長3度音程が消えたことによって、I7 IV7 V7(長3度を欠くのでこう書くのはどうかと思うが──さらにいうと、ブルースにおいて、トニック、サブドミナントドミナントに見えるものは多分そうではない?)の構成音はそれぞれ[A、E+2、G-31][D-2、A、C-33][E+2、B+4、D-29]になる。またどのコードの構成音も同じ比である(9)。つまり、V7の5度として必要な音なのである。しかし、ある意味では重要度の低い音でもある。何故ならV7はもっとも登場頻度が少ないコードだからである(B+4とD-29をかっこに入れたのはこれが理由である)。下のブルースのコード進行では、V7は一度しか出てこない(10)。


I7 IV7 I7 I7
IV7 IV7 I7 I7
V7 IV7 I7 I7


付け加えると、あるブルースのコード進行では9小節目のV7は4拍なかったり、さらに8小節目I7は1拍追加されているものもある。それでは相対的にV7の重要度は低くなるばかりである。どうしてそういうことがおこるのか? ひとつの答えは、それが独自の緊張感の演出になるからであろう(9小節目が短くなるとその効果は高まる)。考えられるもうひとつの(ネガティブな)答えは、「B+4、それにD-29を弾かなくても(歌わなくても)、あまり支障が出ないようにするため」である。本当のところは私には分からない。しかし、ブルースにおいて、V7が相対的に軽視されていることと、ブルース・スケールとしての現在のマイナー・ペンタトニック(とされているもの)の興隆には何らかの関係はあるだろう。

ともかく──ここから先はブルース・スケールの崩壊の話になる──、まず、B+4とD-29が取り除かれる。だがそれだけだと、さほど深刻な事態はおとずれない。一見それがマイナー・ペンタトニックに似ているにしても、ブルース音律にはまだ鬼っ子が残っているからだ。キーがAの場合、それはC-33とG-31、それにb5thのEbである。
b5thについては、私はこの音をブルースにおいて非常に重要な音だと思っているが、昨今はあまり聞かれない音になってしまった。もとより、クラプトンらイギリスの「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の連中の弾くブルース・ギターにはこの音はあまり登場しない。経過音的な使用がほとんどである。白人のブルース・ギタリストの中でb5thの名手は、最近亡くなったジョニー・ウインターである。彼はこの音を使って独自のブルースを演奏した。
しかし、このb5thを弾かなくても、マイナー・ペンタトニックでブルース的な演奏は出来る。

ここで一言いっておく必要があるだろう。私のブルース音律(A、(B+4)、C-33、(D-29)、D-2、(Eb)、E+2、G-31、A)は実際に数々のブルースの演奏を聞いて、そこから帰納されたものではない。そうではなくて、たまたまみっつの弦の第7倍音までの音をオクターブに並べて、そこから各弦の第五倍音にあたる音程を引いてみたら、それが所謂マイナー・ペンタトニックに近いものとなったので、本当はこちらが本来のスケールに近いのではではないかという、仮説にすぎない。もともとブルースは、理論が先にあり、それに現実の音をあてる、という音楽でないことは明らかだから、どんな理論も結局はそうだとしても、これが証明されることはないだろう。その意味で「本来のスケール」を想定すること自体がおかしなことなのかもしれない。それでも私はこの音律をブルースの基礎となったものとして仮定してみたい。まずやるべきことは、残されたブルースの録音を聞いて私の音律が適用できるかどうか、というよりその音律の音(に近いもの)があるかどうかを確かめて見ることであろう。私はそれを耳だけで判断出来ないだろうから、ギターを手に持ちながらやることになる。確かめたいのは主に微分音程なので、これを様々なキーで、ある程度ギターで弾けるようにする必要がある。これはちょっと時間がかかるだろう。この点において、私の議論は現段階では肉体を欠いている。しかし、今はこのまま押し進むしかない。
もうひとつ。私は主に実験音楽のフィールドで活動するミュージシャンであり、時たまの余興、あるいは家で無聊を紛らわす時以外にブルースを弾くことは少ない。もちろん大した腕もない。それにもう何年もブルースを真剣に聞いてなかったような気がする。いや、あえて避けて来たと言うべきだろう。私は色々な音楽──クラシックだろうがタンゴだろうが各種の民族音楽だろうが──を聞くが、その中のほとんどは自分で演奏することが出来ない。出来ないだけでなく、別にやりたいとも思わない。もし出来るのであれば、やったかもしれないが、幸いにも私はそういう器用なミュージシャンではない。ところが、下手くそながらも、ブルースはなんとか演奏できる、そういう数少ない音楽のひとつである。しかし、それを本当にやる意味があるのかというと、そうではないと強く思う。それはどう考えても私の音楽ではないからだ。
今年の5月、韓国のソウルで私は旧友のケヴィン・ドラムと再開した。彼もまた実験音楽と言えるようなフィールドで活動しているミュージシャンであるが、私と彼の音楽は全く違う。我々は12ぶりの再開を大いに楽しんだ。3軒ハシゴしたあと、最後はホテルのケヴィンの部屋で飲むことになり、私がそこに行くと、彼のパソコンから聞こえてきたのはブッカ・ホワイトであった。久しぶりのブルースであったが、私はその音楽をとても素晴らしいと感じた。
ケヴィンがブルースを好きなのは知っていた。いつだっかか──15年くらい前だろう──、プライベートな席で私はケヴィンにブルースを披露したことがあるが、その時彼が言ったのが、「拓、わけのわからない音楽をやるのをやめて、こういうのをやるほうが儲かるんじゃないか?」。もちろん冗談である。
我々は身に沁みて知っている。ブッカ・ホワイトは確かに素晴らしい。けれども、これは彼の音楽であり、我々はそれを真似する必要はないし、フレーズをパクる必要もない。我々は自分の音楽をやれば良いのである。
基本的にはそうでなければいけない。しかし、完全なオリジナルが存在するというのも幻想であり、我々はまず最初は何かを真似ることから始め、その長い時期が過ぎた後でも、周りの何らかの音楽に──程度の差はあれ──意識的な状態が続くというのが実情ではないだろうか? 自分の音楽だけをやるというのは、それをやりながら他の音楽との関わりを持つことよりも簡単である。だが、結局どうしてもそれは必要になってくる。私は堅苦しいことは嫌いなので、そうした方が健全だと思うのだが、そのことによって運命の別れ道を呼び込んでしまうことだってあるに決まっている!

少し昔話をしたい。私が最初のエレキ・ギターを入手したのは1982年、16才の時である。ライ・クーダーエリック・クラプトンなんかを聞いてギターの手本にしていた。やがて、彼らが影響を受けたと言う「ブルース」なる音楽を聞いてみたくなった。本当の黒人のブルースである。当時、ブルースはまだマイナーな音楽で、町のレコード屋(そのころはそういうものがあった)にレコードがある確率はかなり低く、大きな輸入盤屋でも10枚くらいしか在庫がないということもあった。ラジオでもかかることは滅多にないし、当然中古盤も少ない。そういう状況だったのである。
最初に聞いたブルースと言える音楽は、ライ・クーダーとスリーピー・ジョン・エステスのセッションだった(これはライ・クーダーのアルバム中の一曲である)。この時の衝撃は今でも憶えている。私はこの音楽をまったく理解する事が出来なかった。こんなしょぼくれたオッサンの歌の何が面白いのか?もっとも不可解に感じたのは、その頃私はクラプトンがカヴァーするエステスの"Floating Bridge"をすでに知っていたが、それとこのオッサンの歌とギターに何ら関連性を見つけることが出来なかったことである。ふたつはまったく種類の異なる音楽としか思えなかった。前者はロック、後者は一種の民族音楽。私はそのように感じた。
次に聞いたのはエルモア・ジェイムスである。これはカントリー・ブルースではなかったので、エステスよりはずいぶん聞き易かった。にしても、これとクラプトンらがやる白人ブルースの接点を見つけることは難しかった。だが、ジェイムスとエステスの音楽には近いものを感じることが出来たのである。次はマディ・ウォーターズ。確かニューポートのライブ盤だったか。いや、それより先にジョン・リー・フッカーを聞いたのかもしれない。いずれにせよ、このどちらにも白人ブルースとの接点は見いだせなかった。T・ボーン・ウォーカーですらクラプトンらとはまったく違う音楽に聞こえたものである(しかし今あらためて両者の演奏を聞いてみると、エルモア・ジェイムスの方がホワイト・ブルースの先祖のひとりのように聞こえる)。その後ブルースを色々聞いたが、結局それがわかったのは、アルバート・キングやフレディ・キング、あるいはバディ・ガイなんかを聞いてからであった(B・B・キングはまたちょっと違った)。それでも彼らの演奏はニュアンスにおいて何かが違っていた。

私が感じた、白人のブルース(ロック)と黒人のブルースの違いは、次のようにも説明出来る。それは、当時私はレコードを聞く時、それに合わせてギターを良く弾いていたが、その時に、白人のブルースに対しては何の問題もなかったマイナー・ペンタ(今後省略します)が、黒人のブルースに対してはどうもうまくフィットしないと感じたことである。「これは何か違うな」、と私は思ったが、当時(今も?)は誰もそのことに対して疑問を呈している様子はなかった。私は音程に対する自分の耳がそれほど良くないのを自覚しているが、これはそれ以前の、感覚的に了解出来る違いである。黒人のブルースを賞賛する日本人のブルースマンの記事を私はよく目にしたが、実際にその人達の音楽を聞いてみると、彼らのやっているブルースは黒人のそれとはかけ離れており、白人のブルース(ロック)と大して変わりのない、つまり、マイナー・ペンタが通用する音楽であった。
100パーセントの自身があって言えるわけではないが、ふたつの音楽(ブルース)の一番大きな違いは音律、それとイントネーショナル・トーンの有無である。もっとも、私はただひとつのブルース音律があり、誰も彼もがそれに忠実であったとはまったく思ってない。現実に弾かれたり歌われたりした音は様々であろう。ただ、強調するところは違ったにしても──その音律のメンバーいくつかがが奏されることがなかったとしても、あるいはイントネーショナル・トーンにそれ以上の比率がおかれたことによってその正体がわかりづらくなることがあるにしても──、そこにはひとつの拠り所としてのブルース独自の音律があったと思わざるをえないのである。

今まであえて触れないでいた問題がある。それは、C-33やG-31といった微分音を実際にどうやって出すのかという問題である。声はともかくとして、ギターはフレットがついた弦楽器である。しかし、これこそブルースにおいてベンディング(チョーキング)やスライド奏法、それに独自のチューニングといった特殊テクニックが発達した理由なのではないだろうか? つまり微分音程をいかに奏するかという試みなのである。その後の展開はどうあれ、始まりはそうだったのではないか。
私は以前ブルース・ハープを友人に習っていたことがある。残念ながら挫折してしまったが、これはベンディングがあまりにも難しかったためである。ブルース・ハープには第2ポジションというものがあり、これは、例えばAのキーの場合はDのキーのハーモニカを用いる。そうすることによってブルースに特徴的な音を出す事が出来るのである。ハープ独自のテクニックにベンディングというものがあり、これによってある音を上げたり下げたりする。もっとも特徴的なのは下げるほうのそれである。それが可能な穴は限られているが、うまい人だと2全音くらい下げることが出来る。私の師匠もそれに近いとこまで音を下げていた(私は半音と少しがやっとだった)。確か、このテクニックによりC-33やG-31といった音を奏することが可能なはずである(もう、20年近くブルース・ハープからは遠ざかっているので、間違ってたらごめんなさい)。ここまでして──楽器のキーを変えたり特殊テクニックを開発したりということで──得たかったものは、楽器の音色を別にすると、ある特殊な音程なのではないかと考えてもおかしくはない。ブルース・ハープはブルース音律に適合することが出来た故にブルースを代表する楽器になったのではないか。(11)。
次にギターのベンディング(チョーキング)を考えてみよう。これはブルース・ハープと違って音を下げる事が難しい(12)。なので、C-33の場合はBから音を上げなければならない(13)。これは実際ににやってみるとそれほど難しいことではない。もちろん、正確にそのとおりにはならず、近似値ではあるが、それはなんにしたってそうであろう。けれども、音律が体にしみこんでいれば、それをかなり近づける事は可能であると思われる。歌う事もそうだ。それに、それらの微分音は倍音にある音である。例えば、5弦開放弦のAと4弦Dの4フレットを同時に弾きながら4弦の音をベンディングさせていくときに(5弦に触れないように1弦側にベンディング)、その経過音の中5弦開放弦にうまく協和しているように感じる音があるならば、それはG-31なのではないだろうか?(14)。
スライド奏法はどうか? 私はそれを、ブルース音律の確保という目的と、イントネーショナル・トーンを弾くという目的のふたつに関わる(あるいは関わっていた)奏法だと思っている。
今、スライド奏法はますます盛んになっているが、ある微分音程にヴィブラートをかけることによって、その部分を強調したり、あるいは曖昧にしたりするような弾き方をする人はほとんどいない。多くの奏者はある点と点をスライド・バーでつなげているだけである。開始点よりも到着点が重視されているが、この到着点ももちろん微分音ではない。マディ・ウォーターズのようにはもう誰も弾かない。

先日、とあるバーで私はエリック・クラプトンの主催する『クロスロード・フェスティヴァル』(何年のものなのかは知らない)のヴィデオを観ていた。この出演者の演奏のどれにも、私が高校生のころに感じた黒人ブルース独特の感じを見いだすことは出来なかった。第1次「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の頃とは違って、マイナー・ペンタのオンパレードというわけではない。それが基本になっていたとしても、そこには、チョーキングに代表される数々の抑揚的表現と様々なテンション・ノートが加えられることによって、様々な個性的演奏があった。個人的な好みで言うと、ジェームス・バートン、アルバート・リー、デレク・トラックス、それにバディ・ガイの演奏は十分に私を楽しませてくれた。しかし「ブルース」は感じなかった。もっとも「ブルース」を感じたのはデレク・トラックスの奥さん(名前は後で調べます)が弾くギターだったが、それが何故かは分かりません。
この時一緒にヴィデオを観ていたキャプテン(秋山徹次)、中村としまる、池田ケンさん、それにバーのマスターに、「これはブルースではない」と悪態をついたほどに、そこには、私がかつて感じたブルースの特異性を感じる演奏がなかった。
何故なのか? 私はこれを考えてみた。この文章は、なぜ私が悪態をついたか、それに対する弁明でもあるのだ。

ひとつは「単純化」である。これがどのように起こるのかを検討する。
私は学者ではないので感覚的なことしか言えないが、民族音楽を例にしてみたい。
もう20以上前になるが、私はハンガリーのフォーク・ミュージックにはまった。原因はムジカーシュ(Muzsikas)というグループである。彼らの音楽の録音は高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』に使われているので、ご存知の方も多いと思う。しばらく彼らの音楽を楽しんだ後、またもや、ブルースの時と同じように、私はその元ネタが聞きたくなってきたのである。私は手当たり次第にハンガリー(とルーマニア)の民族音楽、それもフィールド録音のものを中心に買った。その中のひとつにムジカーシュが手本にしたと思われるジプシーによる弦楽四重奏の演奏のCDがあった。彼らの編成は、ヴァイオリンが2本(ユニゾンに近い形で奏される)と、ヴィオラ、それにコントラバスである。ヴィオラコントラと呼ばれる)は弦が3本しかなく、駒が水平になっており、それによってトリプル・ストップを奏することが可能になる。これをエンドピンが胸に当たるように垂直にかまえて、弓半分を一拍としてザー・ザーと弾いていくのである。言葉で、説明するのは難しいが、これはアコーディオンの代用として考案されたのではないだろうか。アコーディオンが同じような役割を果たす録音を私はよく耳にしたので。コントラバスも弦は3本しかないが、ブリッジは平行になっていなかったはずである(15)。
ムジカーシュのジプシーの弦楽四重奏をモデルとした演奏と、私が聞いたそのオリジナルの(ひとつ)の演奏に、ぱっと聞いた感じでは大きな違いはない。一番の大きな違いはムジカーシュの演奏にはない微分リズムがジプシーの弦楽四重奏にはあることである。これはブルースの微分リズム──1コーラスがぴったり12小節とは言えないもの──をホワイト・ブルースがほとんど採用しなかったことと似ている。しかし、これは特殊な一例なのかもしれない。私は他の録音を聞く機会があまりなかったから、むしろ微分リズムは例外的なものである可能性もある。どうあれ、それ以外はムジカーシュの演奏はとても模範的なものということができる。そこには誇張がなく、どことなく中立的な感じがする。
彼らが活動を開始した70年代、ハンガリーソ連の軛にあった。「フォークソング」なるものがあったとしても、それはよそゆきの過剰なデコレーションを施されたキッチュな代物だったのであろう。そこで彼らは本物の混じりけのないフォーク・ミュージックを保存/演奏して後世に残したいと考えた。実際に彼らは自国の各地方やルーマニアトランシルヴァニアに赴き、現地の演奏家から教えを受けたということである(16)。
だが、ひとつの曲の正しい演奏というのがフォーク・ミュージックにあるとは思えない。それは歌詞やメロディーの一部が変えられていたり、伴奏する楽器も彼らの都合による、というようなケースがほとんどであると考えられる。現実に目の当たりにするものはすべてがヴァージョンであり、そのどれもが正しいひとつの曲の演奏と言えるのではないだろうか。もともと楽譜のある音楽ではないのである。民族音楽学者であれば、ヴァージョンのひとつひとつを楽譜の形に書き写すなり録音することによって、そのオリジナルを推定しようとするであろう。けれども現実のオリジナルを聞くことは絶対出来ないのではないか。
ムジカーシュは自分たちで演奏することで、ハンガリーのフォーク・ミュージックをきちんとした形にしたかったのである。どうすれば良いか。最大公約数的なひとつのヴァージョンを作ることがひとつの手であろう。録音ということであれば、こうするしかないかもしれない。その際に、「単純化」がなされるのはいたしかたないのだろう。その上で、ライブではいくつものヴァージョンを演奏するという戦略だって残されている。だが、彼らはプロのミュージシャンである。エッセンスを破壊せずに、ある程度分かり易いものを作り、それを普及させるという意図もあったのではないだろうか?

ブルースの場合はどうか? ひとつの重要な違いは、ブルースが商業的な音楽だったことである。その始まりは純粋な民族音楽のようなものだったのだろう。しかし、やがてそれは「売れる」ものになったのである。ムジカーシュが手本にした音楽の中には、プロによる演奏もあったとは思うが、それはある地域の中でのプロが多かったはずである。彼らは実際にそこに赴いて、それらの音楽を習ったと思うのである。クラプトン達とは違って、「レコード」が果たした役割は極めて少ないと想像出来る。
しかし一方で、レコードはある型をそののまま収録することの出来るメディアである。今日の様にオーバー・ダビングもポスト・プロダクションもない時代だったら尚更だ。ありがたいことに、我々はロバート・ジョンソンがどのように歌いギターを弾いたかを録音物によって知ることが出来る。繰り返しそれらの音源を聞くことによって、より正確に、その音楽を真似る、あるいはエッセンスを抽出することことが出来るのである。その音楽を、例えは悪いが伝統芸能がそうしたように、当初のインパクト、より肯定的に言えばその核を残したまま、現代まで伝えることが出来たはずである。ところが事実はそうではない(と言わざるをえない)。幾つかの録音は残っているから、それにアクセスすることで、奏法を会得することは出来るはずだ。しかしこれもやる人は少ない。
今現在、ブルースというと、それは『クロスロード・フェスティヴァル』に出演するようなミュージシャンが演奏するような音楽を言うのではないだろうか? もちろん、音楽は変化するものである。そうでなければ真の強度は持ち得ない。ロバート・ジョンソンの二番煎じが今いてもしょうがないことは明らかだ。では、クロスロードの連中はどうなのか? 私は彼らのやっていることが40年前とほとんど変わらないと思っているが、これは間違っているだろうか?
ロバート・ジョンソンの『クロスロード』とエリック・クラプトンの(クリームのでも良いが)それを比較してみよう(17)。ずいぶんと単純なものになってないだろうか。結果から言うとクラプトンのヴァージョンはひとつのテンプレートになった。いや、テンプレートはもう出来ていて、それで『クロスロード』を演奏したと言うべきか。
これは推測にすぎないが、それまでの長い期間もジョンソンの『クロスロード』は何人かのブルース・マンにコピーされて、数々のヴァージョンが生まれていたはずである。その中には原曲以上に複雑なヴァージョンもあったかもしれない。またそのヴァージョンのいくつかは録音されてレコードになり、ラジオでも流されたであろう。『クロスロード』に限らず、ブルースの名曲は繰り返し演奏され、そこに特徴的な旋法や奏法も含めて、それらが同時代やその後の世代のミュージシャンにコピーされることによって、数々のヴァージョンを生んだり、それが新たな曲に生まれ変わったりしながらも、そのエッセンスを継承することが出来ていたのではないだろうか? 単純化はなかなか起こらなかったのである。むしろ複雑化と多様化の様相を呈していたと言えるかもしれない。ある時まではである。

その兆しは前からあったのだろうが、決定的だったのはイギリスの若者がブルースを自分達の音楽に取り入れ出したことによる。その時に、7/6、21/16、7/4がそれに近い平均律の音に取って代わられた。マイナー・ペンタの誕生である。
もともとブルースではピアノも使われていたが、それはその楽器を利用することが比較的に容易な環境でブルース・マンが演奏する機会が多かったためであろう。楽器のコンディションはひどかっただろうから、厳密な平均律でそれらが鳴っていたとは考えづらく、初期はむしろそれを微妙なニュアンスの音程を引き出す装置として利用していたのではないだろうか?(録音の時は多少まともな楽器があてがわれたかもしれないが)。そういったアパッチな音達をひとつのスケールに閉じ込めようというのだから、これはずいぶんな力技である。それに7/6、21/16、7/4といった音とそれに近似する平均律との差は約30セントである。これは簡単に無視できる違いではない。
だがそうすることによってメリットがないわけではない。ひとつは、それまで体系化することが困難なブルースという様式を、極めて乱暴なやり方ではあるが、ひとつの単純な形として定式化することによって、それの拡散、大衆化、音楽の様式としてのジャンル化を促進したことである。もうひとつは、それがロック・ミュージックの発展に寄与したことであろう。このマイナー・ペンタというやつは実に使い勝手がよい。例えばG Bb C D/Fというコード進行でも、Gのマイナー・ペンタだけで弾き通そうと思えば、それは出来なくはないのである。こういうコード進行はマイナー・ペンタがもたらしたものだと思う。ブルースの7th(第7倍音)からはこういう発想はあまり出てこないかもしれない(18)。
これは別の話だが、こういうことも考えられなくはない。彼らイギリスの若者(ブリティシュ・インヴェイジョンとは良く言ったものである)の演奏は決して上手いものとは言えなかっただろう。ギターは不安定な楽器でチューニングも狂いやすい上に、それを平均律に合わせようにも、チューニング・メーターはまだポピュラーではなかったはずだから、耳でやるしかなかったはずだ。開放弦の音程が合っていたとしても、楽器のコンディションまたはオクターブの調整の不備よっては、高音の音程が著しく狂うことがある。こういう時に、スライド奏法やベンディングは微調整にも役立つはずである。しかし、彼らは、黒人のブルース・マンにはあった、その基準となる音律を持っていなかったので、歌も演奏もしっちゃかめっちゃかなものになった。これが結果的に観客に受けたとは考えられないだろうか? 結局生き残ったものが支配的なものになるのである。彼らが予期せず出した微分音ですらブルース風味を演出する方向に働いた、というのは無理があるにしても。
本当のところは分からないが、今日ブルースと称して演奏される音楽はここにルーツがあると私は考える。その頃に比べ、歌も演奏も確かに上手くはなったろう。楽器も狂いの少ないもの──あるいは調整の行き届いたもの──を使っているはずだ。スケールにしても、マイナー・ペンタ一発みたいのはむしろ少数派で(19)、一筋縄では行かないフレーズを繰り出すギタリストも多い。微分音だって、曲を破壊しない程度には、そこそこ登場している。今なおブルースには不思議なところがちゃんと残っている。楽しむ分には何も問題はない。
私は7/4のように整数で表せる比が正しい音程で、ブルースの演奏にはそれがあるから良いなどというつもりはない。現実にそういった微分音をギターのようにフレットのある楽器で正確に奏することは困難であるし、それがいくらか外れていたって何の問題もないと思っている。実際にそれは、半ば意図的であれ無意識であれ、外れてしまうのである。彼らは「ジャスト」な音程だけをを求めたわけではない。これがブルース音律をわかりづらくしている要因のひとつである。とりあえずの理論を作ったとしても、そこから大きく外れる旋律は沢山見つかるだろう。むしろそっちの方が多いかもしれない。

最近私はアルバート・キングを愛聴している。彼のギターは、時にチューニングが狂ってたり、そうでなくてもアウトな音を出すことがある──それもロング・トーンで。これら変な音に対して、あからさまではないにしても、否定的に考える人も少なからずいると思う。私にとってはとんでもないことである。こういったおかしな音が登場しないのであれば、私はアルバート・キングの音楽をそれほど楽しめなくなるであろう。先にも書いたが、アルバート・キングの音楽はマイナー・ペンタを基本とした奏法がマッチする形式のものであり、ロックとの親和性はかなり高い。意識的であるかは不明だが、彼のアウトな音はそのことに対する抵抗なのではないだろうか。




(1)半音を100セントとする。つまり、F#を69セント高くした音と同じになる。
(2)これは6弦と5弦、5弦と4弦が純正の完全4度にチューニングされたと仮定してのものである。例えば、5弦Aの第4ハーモニクスと4弦Dの第3ハーモニクスを合わすと、そのふたつの弦は純正完全4度(4/3)になる。だが、ハーモニクスを用いなくても、例えばヴァイオリン等の弦楽器奏者が完全5度でチューニングするように、完全4度(Dに対してAはオクターブ低い完全5度であるから)で合わしていたと考えることもありえないことではない。むしろ、そのほうが自然だったのでは?(これは実際やってみると分かるが、ある音とその完全5度上の音とを同時に弾いてうなりを減らすようにしてチューニングする場合と、その音と完全4度下とを同様のやりかたでチューニングする場合、前者の方がやりやすいことは確かである。)
しかし、仮にそうでなかったとしても──フレットを押さえて実音でチューニングしていたとしても──私がこれから述べることに大きな破綻はおとずれない。平均率である場合、4弦D由来のD、F#、A、Cが2セント低くなり、6弦E由来のE、G#、B、Dが2セント高くなるだけである。だが、チューニングなんてしてなかった、というブルース・マンだっていたとは思う。
(3)ギター5弦Aの場合、第16倍音までを列挙すると、第2倍音は基音のオクターブ上のA、第3倍音はその完全5度上のE+2、第4倍音は基音の2オクターブ上のA、第5倍音はその長3度上のC#-14、第6倍音は第3倍音のオクターブ上のE+2、第7倍音はその短3度上のG-31、第8倍音は基音の3オクターブ上のA、第9倍音はその長2度上のB+4、第10倍音は第5倍音のオクターブ上のC#-14、第11倍音はその約長2度上のD#-49、第12倍音は第6倍音のオクターブ上のE+2、第13倍音はその約(!)短2度上のF+41、第14倍音は第7倍音のオクターブ上のG-31、第15倍音はその役短2度上のG#-16、第16倍音は基音の4オクターブ上のA。
(4)正確にはそのひとつというべきだろう。
(5)9/8は3/2×3/2×2/1、4/3は2/3×2/1、15/8は3/2×5/4ととらえる事が出来る。ハリー・パーチは2/3や9/4みたいな書き方はよろしくないと考えているようだ。つまり、どのオクターブであろうが、それらは4/3と9/8で良いと。私はそうは思わない。例えば、2/3は第3倍音の音高に対する第2倍音の音高であるから、それは、基音がAであれば、完全5度下のD-2である、ということを理解するのを助ける。どうもパーチは「倍音」がお嫌いらしい。
パーチと対照的なのがヘンリー・カウエルで、彼は倍音列からインターバルやリズムを考えるのである。
参照:
Harry Partch "Genesis of a Music" second edition 1974 Da Carpo Press の特にパート2(および3)
Henry Cowwell "New Musical Resources" Cambridge 1930 1996 の特にパート1
(6)純正律短音階のCとGはそれぞれ、6/5(C+16) と9/5(G+18)なので、C-33やG-31より4分音ほど高い。5弦Aと4弦Dの倍音の中にその音はない(近いものはあるかもしれないが)
(7)ただし、厳密に言うと、これは倍音から導きだされた音を構成音とした仮想のコードの場合での話ある。そうでない場合、V 7→ IV 7の時に半音関係を持つ音はふたつである。倍音由来だと、D-29→D-2がそこに加わる。それぞれのケースを確認してもらいたい。
(8)長3度系は分子に5、短3度系は分母に5を持つ。
(9)これはそれぞれのセント値の差を見る事でも確かめられるが、比で確認する事も出来る。IV7の場合、A-2とAの比は2/1:4/3=2/1÷4/3=2/1×3/4=3/2、D-2とC-33の比は14/6:4/3=42/24=7/4となり、I7と同じ比で構成されていることになる。V7ももちろん同じ。
(10)これには若干のインチキがある。数あるコード進行の中で、もっともV7の登場頻度が少ないものを私は選んだからだ。
(11)もっともアヴァンギャルドなブルースを聞いてみたいならば、エレクトリック・ブルース・ハーピストが台頭し始めた頃の彼らの実験的な演奏に耳を傾けてみることをお薦めする。一時期、私も大いにはまった。
(12)あまり知られてはいないが、可能ではある。これはブリッジに近いフレットを用いる方がやりやすい。力がいるので、薬指か中指を使ってフレットを押さえ(その時に他の指をそえる)、思いっきりブリッジの方に向かって弦を弛ませるようにする。弦の太さやテンションにもよるが、これで最高50セントくらいは音を下げる事が出来る(私のホロウ・ボディのギルドの6弦の太さは54だが、12フレットでそのくらい音が下がる)。
(13)この意味でもB+4(9/8)は重要である。
(14)とはいうものの、これをうなりの有無(大小)だけで感知するのは簡単ではない。
(2)で述べたように、ヴァイオリン等の弦楽器奏者は完全5度でチューニングする。私自身が少し練習したことのあるヴィオラで説明させて頂くと、ヴィオラ奏者はまず1弦のAをチューナーか音叉でとり、それと2弦とを同時に弾き、2弦ペグを動かしながらこの2音にうなりが生じさせないポイントを見つけることによって、その音高Dを確定させる。以下同様の手続きをとる。
この2音の音程は完全5度である(それも純正──ピタゴラスのそれである)。これは、オクターブ(2/1)についで完全5度(3/2)の協和度が高いからである、という説明がなされる。だがそれだけだろうか? しかし、もしヴィオラの各弦が整数次倍音を含まない、正弦波のようなものだったらどうだろうか? というより、こう言ったほうが私は説明しやすい。実際にヴィオラの弦からは整数次倍音が発生している。2弦Dと1弦Aとが完全5度になっているということは、2弦Dの第3倍音と1弦Aの第2倍音(そしてDの第6倍音とAの第4倍音、Dの第9倍音とAの第6倍音等)が一致しているということである。ギターの完全4度の場合、それが純正のそれである時は、低音側の第4倍音と高音側の第3倍音が一致しているということになる。ギターの完全4度が、ヴァイオリン属の完全5度に比べ、後者と同様のやり方でチューニングが難しいのは、持続音同士でチューニングした方がやりやすいというということの他に、そういうことも関係しているのではないか。ヴァイオリン属のようにふたつの弦の音程が完全5度にあるほうが、より低次の倍音同士が一致しているからである。
これは実際的な方法ではないが、ふたつの弦を完全4度にチューニングする場合に、低い方の弦の第四倍音(第4ハーモニック)と高い方の基音(開放弦)を同時に聞いてそれをやると方法もある。ようするに、低音弦の第4倍音を高音弦の第3倍音にフォーカスさせるのである。これは、片方の音がが倍音を含まないことをのぞくと、5度チューニング(の一種)になる。これは3/2でチューニングしていることになるからだ。もし、このふたつが微妙にずれていると、そこにうなりが生じるのは容易に聞き取れると思う。
もう一度ヴィオラのチューニングに戻ろう。現実的な話ではないが、もし2弦Dが1オクターブ下だったとしたらどうだろう。この音と1弦Aがオクターブと完全5度になっているということは、前者の第3倍音が後者の基音と一致しているということである。これはより低次の倍音同士が一致していることにならないだろうか? しかし、2弦をさらにオクターブ低いDに設定すると、1弦との音程が2オクターブと完全5度になり、2弦の第6倍音と1弦の基音が一致していることになり、オクターブと完全5度の場合と比べて、より低次の倍音が一致しているとは言えなくなる。
整理してみよう。それぞれの比を書くと、完全5度が3/2、オクターブと完全5度が3/1、 2オクターブと完全5度が6/1になる。それぞれの分子と分母をかけると、6、3、6になる。
さて、これから書こうと思うことには、上に述べたこと以上に大した根拠があるわけではない。より共和度の高い音の比率とは、より単純な整数の比であると言われることが多い。では、単純な整数の比とは何なのであろうか? 私はこう答えたくなる。分子と分母の積が小さい数のほうがより単純な比なのではないか? なんだ、5/4(長3度)よりは4/3(完全4度)、それよりは3/2(完全5度)の方が協和度の方が高いのはあたりまえではないか。確かに、20より12、それより6になっている、それがどうした。こういう意見はもっともである。しかし、私が次のように言うとどう思われるだろうか? 3/2より3/1、そしてそれは4/1よりも協和度が高いと。私の実感では、例えば6弦のEと2弦のB(あるいは5弦のAと6弦のEでもいいが)を同時に弾いてチューニングする場合、6弦Eの開放弦と2弦Bの開放弦を同時に弾くより方が、6弦Eの12フレットと2弦Bの開放弦を同時に弾くよりも音が合わせやすいと感じる(一番手っ取り早いのは6弦の第3倍音と2弦開放を合わすことであるが…)。少なくとももうなりは感知しやすいのではないか? 前者はオクターブと完全5度、後者は完全5度のインターヴァルになる。これは3/1のほうが3/2よりも協和度が高いということと(ひかえめに言えば)何らかの関係があるのではないか? けれども、4/1(2オクターブ)よりも3/1の方が協和度が高い、と言うのは確かに無理があると感じなくもない。6弦Eの開放弦と2弦Bの開放弦を、ハーモニクスに頼ることなく、オクターブと完全5度にチューニングすることよりも、6弦Eの開放弦と1弦Eの開放弦を2オクターブにチューニングすること方がほとんどの人にとって(もちろん私も例外ではない)容易であると想定出来るからだ。
少し言い訳をしてみよう。6弦のEと2弦のBが3/1であるということは前者の第3倍音と後者の基音が一致するということであり、6弦のEと1弦のEが4/1であるということは前者の第4倍音と後者の基音が一致するということである。そこで実際に6弦のハーモニクスを使って2弦のBと1弦のEをチューニングしてみよう。これは3/1のほうに軍配が上がるのではないだろうか?
もちろん上に述べたことだけで、3/1の方が4/1よりも協和度が高いということの完全な説明にはなっていない。それに私の理論(協和度の高い比=分母と分子の積の値が少ないもの)は倍音が発生していることを仮定してのものなので、それがないか少ない楽器、あるいはクラリネットのように奇数倍音しか出ない楽器については、話がまるで違ってくる。それに比を構成する基音の相対的な音さ(それが低い音の3/1なのか高い音の3/1なのか)、各倍音の相対的な強さや持続時間等もそこでは考慮されてない。高次の倍音に特徴がある楽器の場合においても、また話が違ってくるのである。楽器によって倍音の出方は違うのだ。
とりあえず、3/1の方が4/1よりも協和度が高いという説はお預けにしておこう。
もう少し続ける。その前にハリー・パーチの話を少し。彼の理論には3/1や4/1という比は出てこない。3/1や6/1や12/1、あるいは3/4や3/8等はおしなべて3/2として扱われ、4/1や8/1、あるいは1/2や1/4は 1(1/1)あるいはオクターブ上の2/1として扱われる。パーチにとっての単純な比の順位はこうなる。1、 2/1、 3/2 、4/3、 5/4、 6/5。それぞれ、完全1度、オクターブ、完全5度、完全4度、長3度、短3度である。これは別によい(私の順位とは違うが)。だが、パーチの3/2は、それが基音のそれより低い場合でも、オクターブを超えて高い場合でも、等しく3/2なのである。だが、基音とその上の3/2と基音とその下の3/2を、実際にギターのような楽器で鳴らしてみた場合に、上の3/2の方が協和度が高いと感じるのではないだろうか。下の3/2は本当は3/4なのではないか。ギターを例にすると分かりやすい。ギターの5弦Aに対する低い3/2は6弦のEである。ところが、ここで問題となっているのがふたつの弦の音高の比だとするなら、6弦のEを基音ととらえてみると、ふたつの音の比は4/3である(6弦のEを3/4とすれば、1:3/4=4/3がより簡単に導きだせる)。これは基音より上の(本当の)3/2よりも複雑な比ではないか。パーチは理論的にも実際的にも倍音を見くびりすぎなのではないだろうか? 私は3/1や4/1のような比は倍音を重視することによって生まれてくるものなのかもしれないと考えている。視点を変えてみることが大切なのである。恐らく私の理論は間違っているだろう。しかし、何から何までおかしいとは思っていない。3/1や4/1のような比を積極的に採用することによって見えてくるものがあるはずである。(14ー1)
この注の始まりは、どうG-31を感知するかであった。ずいぶんと長くなってしまった。だけど、もう少しだけ。──私の理論を別の視点から眺めてみよう。私の理論だと、例えば、7/1は4/3よりも協和度が高いことになるが、それは、基音を5弦Aとすると、その倍音の中には7/1G-31が含まれているが、4/3のD-2は含まれていないことともいくらかは関係する。5弦Aの音の中には7/1G-31が含まれているのである。その弦を鳴らすことによって、実際にその音も出ているのだ。5弦の第7ハーモニック(倍音)と1弦の15フレットのGを同時に(これはテクニックを要するので別々でもよい)弾いてみると、そこにはうなりが聞こえる。このうなりを消すように1弦のペグを回していくと、そこからG-31を得ることが出来る(14ー2)。では7/4チューニングするにはどうしたらようか。一番てっとり早いのはハーモニクス、すなわち5弦の第7倍音と3弦の第4倍音を合わすことである。しかし、4/3で試したのと同様に、5弦の開放を弾き、その第7倍音に4弦の第4倍音をフォーカスさせることによっても出来る。4/3(というか3/2)よりは難しいが、うなりは感知出来る。もちろん、このやり方は実際的ではない。しかし、このことによって耳が第7倍音を聞いているということが分かるのではないだろうか。聞こえる以上、それをギターで出すこと、声にして歌うことも出来るのではないか?
『音律と音階の科学』(小方厚 講談社 2007)の第4章と第8章が、ここで述べた着想の源となっている。曲解している場合、著者には不名誉なことになるので、あまり大声では言いたくないのだが…
(14−1)私はパーチを批判しているわけではない。念のため。パーチはたいした男である。彼は独力で他の何にも似ていない自分の音楽と理論を作った。だが、それで終わりにしては面白くない。我々後から来たものは、そこから新しい何かを引き出すように努めるべきである。
(14−2)これと、同様のやり方で、すなわち5弦の第4倍音と4弦の第3倍音を合わすことで4/3をチューニングする場合、4/3方がやりやすいと感じるかもしれない。しかし、これは習慣の問題もあるのではないか? 7/1をチューニングすることはほとんどの人にとってないといえる。7/1を同時に弾いてその協和度が4/3のそれに比べて高いとは思わないとすれば(私はそう思わないが)、それも同じである。しかしこれも、保留にしておく。間違いなく言えるのは、3/2より4/3、それよりも5/4をチューニングすることが相対的に難しいということである。
(15)私は1993年にブダペストで幸運にもムジカーシュの演奏を(しかもただで)生で聞く機会を得た。これはまったくの偶然であった。
(16)"The very best of MUZIKAS"(NASCEXTE NSCD031)のJoe Boydの解説を参照。ルーマニアトランシルヴァニアハンガリー音楽の古い層が比較的に残っている地域だと言われる。第一次世界大戦によりルーマニア領になってからも、そこには多くのハンガリー人が住んでいる。
日本語で読めるハンガリー民族音楽についての本には『ハンガリーの音楽』(シャーロシ・バーリント 横井雅子訳 音楽之友社 1944)がある。残念ながら現在は絶版らしいが、歌詞を含んだ豊富な譜例、楽器の解説、ジプシーが果たす役割等について丁寧に書かれており、私は2度通読した。その中に、年配の農夫がツィテラ(ツィターと同属の弦楽器)を弾く際に伴奏弦を正確にチューニングすることを面倒臭がったという話がある。私も「これはチューニングしてないな」というツィテラの演奏を、フィールド録音を集めたCDで聞いたことがある。これなどはもっとも複雑なケースである。これを普通にチューニングにして演奏し、一つの曲の原型とすることも「単純化」のひとつなのである。
(17)スリーピー・ジョン・エステスの『フローティング・ブリッジ』とクラプトンのそれでも良い。
(18)しかしこの場合、本当はGをレとしたレファソラドかもしれない。