続き

フェスがどうだったかというと、いや〜、色んな要因が重なって、私にとってとてもハードものでした。
初日。Roland Kaynの音響作品で幕が上がる。いや、正確には、作曲家本人が去年亡くなったとのことなので、幕は上がらずに暗闇に録音が流された。マルチ・チャンネルとマルチ・ライティングであちこちに音と光が飛び交っている。正直疲れました。会場を見渡すと、ものすごい人数の観客。300人くらいいるんじゃなかろうか。これはまいった。こんなところで自分の音楽ができるのか。
続いて、スポット・ライトを浴びてPauline Oliverosが登場。なんか会場が異様に盛り上がっている。写真を撮ってる人も多い。内容はミディ・アコーディオンを使った(恐らく)即興。アウトラインは決まってたのかもしれない。しかし私には希望のない音楽に思えた。どうしてこうなっちゃうんだろうか?
この日の朝に私はEllen Fullmanの話を別の会場で聞いていた。例の長い弦を擦る人である。彼女は自分の音楽の発展を説明していた。彼女はヴィジュアル・アート出身で、音を使った最初の作品はメタルのスカートをはいて街を歩くというものだった。このときの記録映像は私にもなかなか興味深いものに思われた。続いて、それが弦を擦りながら歩く作業に変わり、やがてその弦の数(とそれを擦る人)を増やし、それを純正律(ジャスト・イントネーション)にチューニングするようになったという。ここまではいい!実際に音も映像も面白かったし。それから彼女は、この手の音楽が均一なダイナミクスで構成されていることに業を煮やし、様々なダイナミクスで演奏できるように練習を開始したとのこと。楽器としての表現力を高めようということなのだろう。しかし実際の音楽はそれまでとあまり変わってないように思えた。私が思うに、それまでの自分のやってきたことにあまりに固執しすぎた結果として、自身の音楽の発展がテクニカルなものや表現の幅(あれも出来る、これも出来る)だけに向かってしまったからではないか。続いて彼女が考案したのが木製のアイロンのようなちいさなオブジェで、これは弦をリズミカルに擦るために使う。箏の和音のような音をだしていた。だけど、こうなるともう普通の音楽である。何がしたいのかわからない。そのうちクラシックをアレンジして、その長い弦で演奏するのではなかろうかと思わせてしまう。そんなものを聞いてしまった日には、気分が落ち込むに決まっている。私は彼女のコンサートに行くのをやめた。
同じ事がPauline Oliverosにも言えるような気がする。Oliverosのやってきたことはもっと多様なので、一回のコンサートを観ただけで判断すべきではないと思うが、それでも私にとってそのパフォーマンスは、彼女が「あれも出来る、これも出来る」へ到達したことを確信させるものであった。あれとこれを同時にやってみた結果として、なんだか奇妙なものになった、というのであれば、そこには希望がある。あれがあって、これがあって、こんなことも出来ます、というのは希望がない(恐らく完成度というのはそういうことで計られるのだろう。そして、完成されたものこそが聴くに値する音楽である、というのが常識なのかもしれない。しかしそれでは、音楽を聴いたら、あとはそれが好きか嫌いかしか残されていない、ということになってしまうのでは)。
Oliverosのパフォーマンスは大受けだった。私はこれ以上聴く気にならず、ホテルの部屋でビールでも飲もうと会場をあとにした。
二日目。一応コンサート会場に行ってみたが、ほとんど観なかった。ちょっと観たものも内容をほとんど憶えていない。このまま帰るのも寂しいので、下のカフェに降りたら、ルシオとジョニーがいた。ビールを飲みながら談笑。ところが、上の会場でコンサートが終了したと思ったら、今度はカフェでDJが始まった。これはかんべんしてくれ、ということでウイスキー・バーへの移動となったのでした。
三日目。正念場である。なにしろ、どう考えても我々だけが違う。最初はマイケル・ピサロのアンサンブル作品ふたつ(ルシオ、ジョニーを含む5〜6人編成の曲。2曲とも違う楽器編成)。ステージでは演奏せず、客席前方に演奏スペースを作ってPAなし。もちろん、そうするしかないでしょう。私はマイケルとデュオだったが、これも同じ。
最初のピサロ作品2曲は、予想通りに、沈黙を含む弱音音楽。一言ではそうなってしまうが、それはこういう音楽にもう目新しさはないということなのかもしれない。にも関わらず、私には今でもここに希望を見いだしている。フェスのパンフレットによると、ピサロは「今最も面白いアメリカの作曲家のひとり」となっているが、それは本当だと思う。彼の非凡さは、ひょっとすると、その作品を聴く人よりも、それを演奏する人の方が理解できるような類なのかもしれない。マイケルも私と同じギタリストなので、自分で演奏してみて、特にギター曲に私は何回もハッとさせられた。この日私は一観客だったが、彼のやりたい事はよくわかった。それに、PAなしの生音のアンサンブルは非常に繊細で美しい。ディテールがものを言う音楽なのである。恐れていた観客も、何故か50人ほどに縮小している(これには本当にほっとした)。このコンサートが終わったあと、私はその余韻と共にいたかったので、自分の出番まで何も聴かない事にしてホテルに帰ることにした(路上のチェスが観たかったというのもある)。
さて、我々の出番がきた。即興ではない。曲目は"melody, silence, melodies"。それぞれのギター曲の同時演奏。といっても、私もマイケルの曲を弾くし、マイケルも私の曲を弾く。時にソロ、時にデュオ、オーバーラップもあったし、譜面があるので完全なユニゾンをすることもできた。ここ数年演奏した中で、譜面がそうなっているからだが、私はもっとも多くの音を弾いた。シアトルで同じマイケルの曲を演奏した時よりもである。もはや沈黙の音楽ではない。会場の雰囲気も良い感じだったので、とてもリラックスして演奏できたし、時間があっというまに過ぎるほど音楽を楽しんだが、客観的にどうだったかは自信がない。「あれも出来る、これも出来る」でないことを願う。実際に私が出来ることは限られてはいるのだが。


本。今回は2冊持っていった。最初に読んだのはトマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』(永井均訳)。正直言って、読むのがしんどかった。翻訳のせいなのか、内容なのか、私の集中力のなさなのかは分からない。たぶん内容だろう。倫理はもっとも難しい哲学のテーマだと思う。読んでいて、こちらがその問題について考える時間の方が、本の活字を追っている時間よりはるかに長くなってしまう。その意味で、この本における問題提議のさせ方は実にハードコアである。読み手を酔わすような物言いはほぼない。そこでこちらで考えてみるしかないのだが、どうもうまい考えがうかばない。そこに時間がかかる。「価値の分裂」という論文はわずか20ページだが、これを読み通すのに半日を要したほどである(おかげで賄いを逃した)。それだけひっかかるということでもあるのだろう。もう一回読む。
もうひとつはプーシキンの『大尉の娘』(神西清訳)。私は小説をあまり読まない。たんだんと読まなくなって、今では年に一冊読むか読まないかである。理由はいつか言うとして、しかし、どうもそのことがもったいないような気がしてきた。いまさら流行を追いかけるのはいやなので、あえて古典を読もうと思い、何故かトルストイを古本屋で探したが、適当なのがない。『戦争と平和』があったが、これはいきなりハードルが高すぎる。そこで、タルコフスキーが何かの本でよく引き合いにだしていたプーシキンを選んでみたわけである。予想に反して、これがかなりのエンターテインメントだった。スタジオ・ジブリの諸作品、特に宮崎作品の原型をそこに見たと思ったほどである。彼らがこれを読んだか、または読んでも流したかに関わらず、そういうことはありえるだろうと思う。ただ『大尉の娘』では女性キャラが弱い。私は大尉の娘マリヤには心を動かされなかった。私は、若い頃にドストエフスキーの『白痴』を読んで、それに登場するナスターシャとアグラーヤに、こんな女性がいたら自分の人生は破滅するだろう、しかし、それも大歓迎だ、と思わせるくらいに心を動かされたことがある。悪い女こそ我が憧れの女性であった。ところがマリヤはただ献身的なやさしい女性である。この点が物足りない。とっていっても、そういう話なんだからしょうがないけど。