マンフレッド

日曜日はマンフレッド・ヴェルダーと角田利也のコンサート@l-eのコンサートに行った。
1曲目は"for one performer"。スコアは見ていないが、時間の中に音を置いていくあのシリーズだと思う。何度か演奏しているが、一観客として聴くのははじめて。もっとも、こういう音楽の場合、演奏者と観客の区別はあまりないといえるかもしれない。もともとのアイデアとしては、マンフレッドが演奏中は角田さんが観客、角田さんが演奏中はマンフレッドが観客となるもので、角田さんが観客としてのふたりの発するノイズをマイクで拾って録音していた(これは増幅されていないので、我々には録音されているようには聞こえない)。あまりに気持ちいいのと、昼間の労働での疲れもあり、半分くらいは寝ていた。でも、それでイイと思う。
2曲目はテキスト・ピース。これはその場にいないと面白みはわからないだろう。机の上にはテキストがプリントされたスコアがあり、その上にトカゲと蜂のミイラ(?)が置いてある。さあ何が始まるのかな、と思っていたら、何も始まらない。ただそれだけ!! あっ、一度だけアクションがあって、それはマンフレッドがピルケースのようなものから乾燥植物をそのスコアの上にばらまいたこと。時間に依存していない音楽。もちろん、絵を見るのにも、本を読むのにも、そこに時間の経過はある。しかし、こういったある観念がその曲の本質であるような場合、どのような時間がそれを支えるのか? 「今」がその時間であっても良いのである。その時確かに音はあったし、今もある。そして、それとは別に時間から離れたところにテキストが想起させる観念がある。実に面白い! マンフレッドの「作曲」はーー抽象的な意味でもーー音が素材となっていない。
終演後はマンフレッドと話をした。メイン・トピックは最近顕著になってきたヴァンデルヴァイザーの受容に関しての変化である。10年前、彼らはほとんど無視されていた。いや、そうじゃないな、嫌われていたと言った方がいいかもしれない。特に私の周りの即興演奏家は露骨に彼らの音楽に対する嫌悪感を表していた。彼らの多くは今もその態度を変えていないであろう。ところが、最近になって、若い人を中心に即興演奏家がヴァンデルヴァイザーの作曲家達の曲を演奏するようになってきた。何年か前から、そういう話は少しづつ私の耳にも届いてきたし、実際に明らかにヴァンデルヴァイザーの影響下にある演奏家も何人か目撃している。私のところにもーー私はヴァンデルヴァイザーの作曲家ではないがーースコアを送ってくれという話がいくつかきた。CDも色んなところからリリースされているようだし、どうもこれは流行ってるんじゃないか!、と思い始めたのは一年くらい前からである。だからと言って、「これは何とかしなければ」、なんてことは思わない、思う必要もない。マンフレッドも淡々としてたなあ。口調には皮肉が混じってたけど。どうあれ、私は彼らの音楽が好きだし、家でよく聴くのは彼らの音楽だ。演奏もよくしている。これはこれでしばらく続くだろう。けれど、それとは別に、自分のやりたいことというのは変わるので、それに自然に対応していきたいなと思うのである。私は最近リリースされたヴァンデルヴァイザーのCDをーー他のところからリリースされたものを含めーーほとんど聴いていない。お金がなくて買えないからである。本当は聴きたい。例外的に聴いているのはマイケル・ピサロのものであるが(これは諸事情により手にはいる)、彼の音楽はヴァンデルヴァイザー的なものから少しづつ離れているように感じる。良いか悪いかは人が判断すべきことで、音楽家は自分の音楽をやればいいのである。
ヴァンデルヴァイザーの魅力とは何か? それはひとつの身振りをオファーしたことだと思う。特に演奏家にとって、ステージでほとんど音を出さないのであれば、それは強力なひとつの身振りを提示することになる。音が少ないことも然り。それは何かを「言っている」ように捉えられる。正直、私にとってもそれは魅力のひとつであった。しかしもう、それは効力を失いつつある。だからと言って、無理に新しい何かをひねり出す、というのも皮相的だ。「私たちに出来ることは、ただ待つことだけである」ーーコレ、誰の発言だっけなあ。