昨日の続き

今日、所用のついでに楽器屋をのぞくと三味線の教本があった。その前書きには、今日三味線は伝統音楽以外の様々な音楽で使われます、と書いてあった。その教本は三味線用の譜面と五線譜と両方を使って弾き方を説明している。これは今日の音楽のあり方を考えると適切なやり方であろう。だが、これは楽器の弾き方、それも“伝統音楽以外の様々な音楽”に対応できる三味線のあり方までも視野に入れての教本である。このことに文句はない。
私が問題にしたのは、五線譜で“津軽三味線”を弾くということは、その伝統とは別の文脈で“津軽三味線”を弾くことであり、その別の文脈で弾かれたものも“津軽三味線”と言えるのだろうか、ということなのである。それでひとつの伝統的な音楽が継承されたことになるのだろうか?音楽なんて時代によって変化するものだから、こういうやり方もあっていい、と考えるのはおかしい。だったらそれを“津軽三味線”という根拠は何なのか、なにをもってそれを“津軽三味線”だと同定すればいいのか、それがなんであったってかまわないではないか、ということにならないだろうか?それに、変化を認めるなら、それを五線譜の上に定着するというのは変ではないか。
昔、ひとりのギタリストから面白い話を聞いた。彼は即興演奏を専門にしているが、クラシック・マンドリンも弾く。マンドリンはギターより後から始めて、先生について厳しいレッスンを受け、音楽理論を学び、楽譜も読めるようになり、やがてその世界でいくつかの録音をおこなえるまでになったという。だが彼は楽譜を見てギターを弾く事は全くできないらしい。音符が浮かぶことすらないと言う。楽譜を見てクラシック・マンドリンを演奏するのと、ギターで即興演奏するのはまったく違う事だと言っていた。ほとんど共通点がないふたつの音楽の世界を彼はもっているらしい。
そこで、こんな事を考えてみる。あるひとりの津軽三味線奏者が、同じ曲を、ひとつは五線譜を使って演奏し、もうひとつは本来あるようなやり方で憶えて演奏する。そういうことがひとりの人間に可能だったとして、そのふたつの同じ曲は本当に同じ曲なのか?我々には同じ曲に聴こえたとしても、その奏者が上記のギタリストのようにふたつの世界(西洋近代システムと伝承芸)に生きていたとしたら(これは十分ありえる)、その本人にとっては、同じ曲どころかまったく別の音楽にはならないだろうか???