奏でることの力、他

古本屋で『奏でることの力』(若尾裕著 春秋社)という本を買った。若尾先生の著書を読むのはこの本で2回目であるが、内容にはとても共感できる。とても平易な言葉で書かれているが、ここにはいくつかの哲学的な問いがある。しかし、この本が書かれたのは10年以上前であるが、その時から現在までの間に、これらの問いに答えようとする議論や試みはどれくらいあったのだろうか?ただ私が知らないだけかもしれない。しかし、そう多くはないと思う。それは恐らく、そういう事(どういう事は本を読んで欲しい)を音楽の問題として考えている人があまり多くはいないからではないか。私も10年前はそういうことをあまり考えてなかった。だが今の私は考えざるをえないのであり。例えば、こんなことが書かれている
 

      • 例えば、私がアフリカの音楽に魅せられ、それを仲間と一生懸命練習したとしよう。多分とても楽しいことだろう。だが、私はそれが単に趣味的で、消費的なものに見えてしまうのである。例えば、私にとっての音楽は、パリの音楽でもラテン・アメリカの音楽でもよかったのかもしれない。つまり、どうしてもそれでなければならない理由が薄く、交換可能なのだ。(187〜188)
      • かといって、私が日本人であるという理由で、日本の伝統音楽の何かを始めたとしても、そのリアリティーは今やアフリカ音楽をやるのと、さほど差はあるようにも思えない。(188)

まったく同感である。私は先日図書館でクラシック・ギターのコンピレーションCDを借りた。そしていまそれを聴いているのであるが、これがまったく我慢がならない音楽である。技術的にはすごいと思うし、「表現力」とやらもあるのだろう。だが、自分にとってはあってもなくてもどうでもよい音楽である。いやそうじゃない、このCDを聴く事は、自分に拷問を課しているのに近い。これは負け惜しみでいっているのではない。本当にそう思うのだ。こんな風にギターが弾けたらいいな、とすら思わない。そこで次は”LED ZEPPELIN”を聴いてみる。これはまったく違和感なく聴ける。こういうギターは弾いてみたいと思う。しかし、これは単に趣味の問題なのではないか?どのように「趣味」が形成されるかはすべてが偶然に決まるものではないだろうが、それは、交換可能なものを対象にするということが前提になっている。嫌いなことを趣味にしている人は(多分)いない。「趣味」が発生するのは、単純に言えば、好きか嫌いかの判断からである。まあ、単なる好みの問題に還元することを嫌いな人もいるだろう。そこで自らの「趣味」を追及していくわけである。対象物としての音楽に、「質」や「洗練」や「完成度」、時に「味わい」や「逸脱」を求めようとする(恐らく今一番求められているのは「個性」であろう)。そして「良い」か「悪い」が決まるわけだが、その判断の拠り所となっているものはなんなのだろうか?多くの人が「音楽」だと思っているものは—若尾さんの言葉でいうところの—「音響客体」である。私はこのように音楽を扱うことはアトミズムだと思う。直接に音を出すにしろ、楽譜という設計図を作るにしろ、多くの音楽は「音響客体」をその最終完成形している。それを聴く人がいようがいまいが、そこには音楽があると。
昨夜、あまりに客が来ないので、バーを閉めて近くにある知り合いのバーに飲みにいった。マスターはヴァイオリンを弾く。そこで、「ちょっと弾かせて」とお願いしてセッションが始まった。店にはギターもあるので、それを弾いたり、マスターとお客さんの合奏に耳を傾けたりして時は過ぎていった。ここでの演奏を「音響客体」としてみなせば、それは酷いものであろう。これが録音されCDになったとしても、(私も含め)誰も聴かないと思う。しかし、私はその場を楽しんだ。演奏は「音響客体」としてあったのではなくコミュニケーションの手段だったからだ。それはその時その場と切り離すことが出来ないものであった。私はこういう音楽のあり方には違和感をあまりもたない。ライブの音楽とは本来そういうものであろう。ただ、奏でられたものが既存ものであるということは問題ではある。だが、私はここで自分自身の音楽が出来るだろうか?それにしても、なんでこの世にはこんなに沢山音楽があるのだろうか?そしてそれらのほとんどがどうでもよいものとして捨てられる運命を持っている。そうでなかった場合は、各分野の通によって「趣味」の対象として保存される。なんか本当にわくわくするような音楽は極めて少ない。私は「個性的な表現」というのにも懐疑的である。「個性」が成立するにはある強固なシステムが不可欠であると思われるからだ。「個性A」と「個性B」は同じ土俵に立たない限り、それぞれが個性的あるとは判断されない。これは音楽のジャンルにもあてはまる。あるジャンル(ないしそのサブジャンル)の存在や特異性は畢竟すればそれらが同じシステムを共有していることに依存している。(続く(多分))

コンサートがあります。

島田英明 / 杉本拓
日時: 5月7日19時30分開演
会場: 七針
入場料: 1,500円