言わせてもらいます

この前、立ち飲み屋でテレビを見てたら、津軽三味線の名人が出ていて、最近は曲がおぼえられない、またこういう伝承芸のようなものをどう後世に残すべきか、みたいなことを言っていた。そこで、どこかの大学の先生が出てきて、その名人の演奏を、楽器に取り付けた機械(ピック・アップだと思う)から発せられる音声信号をもとに楽譜(五線譜)にするということをやっていた。その時使用された楽器は一種のエレキ三味線で、装置もたいそう大げさなものだった。そこまでやらなくても、いい耳を持っている人がいれば楽譜くらいは書けるだろう、と誰でもが思うが、つっこむところはそこではない。一体、そうやって楽譜化されたものを後世の人間がそれをたよりに演奏できたところで、果たしてそれが津軽三味線なんだろうか?それではまるで、日本語が全く出来ない人がローマ字で読んだ日本語みたいなものではないか。こういうやり方というのは実はその文化をなくす方向に一役かってはいないか、ということは誰も考えないのだろうか?津軽三味線の事はよく知らないが、その演奏は恐らく、同じ曲をやるにしろ、毎回違うのではないか。気分や状況に合わせて、奏者は音を変化させるはずである。そのヴァリエーションをそれぞれ楽譜化出来たとしても、何故そうなったかまでは記録できまい。理由なんてそもそもないかもしれない。それはただそうなっただけの話かもしれないから。ロックだってそうで、あるバンドのあるギタリストのギター・ソロをコピーして、この曲はこうでなければいけません、なんていうのは滑稽極まりない。音だけ残せたとしても、それを支える風習がなければその伝承芸は死んだも同然である。しかし、まあ録音ならまだ話は分かる。それまで否定する気持ちにはなれない。私のような門外漢がそういう音楽に接する良い機会になるだろうし、その音楽を学びたい人にも参照の役割を果たすだろうから。また、そういう録音を聴いて見よう見まねで弾いているうちに、知らず知らずのうちに津軽三味線の本質を理解する、という人がいるかもしれない。本来の環境とは違うところから本質を継ぐものが表れるかもしれない(あまり期待は出来ないが)。とにかく、楽譜として残すのは、音楽学者とかそれを研究する人のためだけにしてほしい。その学者が津軽三味線を演奏したってかまわないわけだが、その本質は研究の対象としての津軽三味線とはまるで違うことを理解できるのか?それが分からなければ(誰でアレ)、津軽三味線は将来ろくでもない音楽の珍奇な素材としてあつかわれかねないではないか。いや、もうそういうのはあるんだろう。勝手にやってくれと言うしかないが、どこかやるせない気持ちは残る。