カーデューの“論文”

3週間近く前の話であるが、“コーネリアス・カーデュー〜大学と論文”というコンサートをアサヒ・アートスクエアで観た。『大学』(The Great Learning)のパラグラフ7は曲も演奏も素晴らしかったと思う。これにはまいった。ただ美しいというだけじゃなく、色々と考えさせられた。パラグラフ4の演奏にも、色々と思うところ(こちらは疑問も含む)があったが、どちらの演奏と曲についてもうまく書けない。
私は『論文』(Treatise)について書きたいと思う。話は、実際の演奏についてではなく、プログラム・ノートに引用されていたカーデューの次の言葉から始めたい。
 音はスコアの像であるべきで、その逆ではない。
この言葉はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の「写像」に由来するらしい。この「スコア」とは何のスコアなのか?もし、カーデューのいう「スコア」が一般的な五線譜のことであれば、スコアと音には諸要素の対応関係があり(そのような規則や規約があるので)、そこには写像が成立するだろう。この時、スコアは像であると言える。しかし、「スコア」が"Treatise"のことを指すならば、スコアと音を対応させるいかなる規則も音楽的文法もないので、スコアと音の関係に写像はない。いかなる音も"Treatise"を演奏した音としてみなすことができなくはないから当然である。カーデューの言葉は創作ノートに書かれたものらしいので、恐らくは、「スコア」は"Treatise"のスコアのことなのだろう。そういうことにする。
問題はそれだけではない。「音はスコアの像である」とは何なのか。これがただの翻訳の問題で(私は原文を読んでみたいのだが)、実は「音はスコアからの写像でもたらされる」というような意味であれば、言わんとしている事は分からないでもない。もちろん"Treatise"の記譜法(そういうものがあるとして)と演奏される音の間に写像は成立しない。しかしこれは、写像理論とは関係なく--なので「その逆ではない」のところが腑に落ちなかろうがどうでもよく--、単に、ある図形や記号から何らかの音が連想されうるだろう、そういう楽譜と音の関係を探ろう、みたいなことなのかもしれない。
だがもし本当に「音はスコアの像である」と考えていたとしたら、同じく誤解には違いないが、これはさらにとんでもないことを言っている。もちろん一般的な音楽であれば、その音をスコア(五線譜)にすることはできる。そのような規則がある。しかし、この「スコア」が"Treatise"のことで、「音」がその実演であったとしたら、その出された音が像になり、そこから"Treatise"のあるスコアが推測されうる、しかもその逆はない、そういうことを「音はスコアの像であるべきで、その逆ではない」は意味していることになる。"Treatise"の実演を聴いて、そこからそのスコアを導き出すことができるだろうか?さらに、「その逆ではない」のだから、スコアから音を引き出す規則はないのに、その逆はあると言っているのである。実にばからしくて面白いではないか!
写像理論は"Treatise"とは関係ない。この線に沿って議論を展開してもらちがあかない。しかし、そういうものではない、もっとカジュアルな関係がそのスコア上の図形や記号と音との間にあるのではないか、という方向で考えてみる事はできる。「音はスコアの像であるべきで、その逆ではない。」の私なりの解釈も含め、そこから"Treatise"における音と図形の関係を探ってみたい。
私は何度か"Treatise"を演奏したことがある。だがいつも結局は演奏家の資質や個性に依存した演奏におちついてしまうのである。ただ集団で即興をするよりはまとまりや緊張感を多少はもたらすかもしれないが、その程度の効果しかもたらさないのではないか。今回観た演奏は私が関わってきたものとは音楽的にはかなり違ったが、解釈の仕方には似通ったものを感じた。結局、なんでもいいんじゃないかと思ってしまうのである。演奏を"Treatise"の名前でおこなう必然性はどこにあるのか。実際にどう思って演奏しているかに関わらず、"Treatise"をダシにいつもの即興を多少は趣を変えて演奏しているだけに感じてしまうのである(そのことと演奏の質とは別であるとしても)。それが現代音楽風だったり、音響風だったり、インプロ風だったりするだけの話で、そのようなヴァリエーションの違いを超えた何かを"Treatise"から引き出す事は出来るのだろうかと考えてしまう。
キース・ロウは我々に、"Treatise"の各1ページは十分な時間をかけて演奏すべきだ、みたいなことを言っていたが、今にして思うのは、彼がただそういうのに慣れていたというだけのことではないのか?もちろん、それで演奏がうまくいくのならいいのかもしれないが。
しかし、もし私が"Treatise"をやるのなら、まったく違ったやり方でやってみたい。過去に"Treatise"を演奏して面白かったのは、人の出す音を聴いて、ああ、多分この部分をやっているんだな、と思うことが多々あったことである。ある記号はなんらかの音を連想させる。また音だけではなく、その記号に似たオブジェを使って演奏する、というのもアリであろう。誰かが実際にその記号にあたる音を出しているかどうかはどうでもよく、そうではないかと思うことが面白いのである。
そこで、音と記号がどのように類似しているのかを考える、ということを推し進めよう。私の考える"Treatise"は何も演奏しなくて良い。「音はスコアの像であるべきで、その逆ではない」--これが私の積極的な誤解であっても、もはやかまわない--のだから、実際にスコアから音を導いてはいけない。まずはただ聴くしかない。しかし"4'33"とはここから先が違う。"Treatise"の任意のページを開いて(といっても私は3ページ分のコピーしかもってないが)、その譜面に書かれた記号や図形、およびその配置の解釈を環境音から導くのである。私のページは84ページ。まず全体をつらぬく太い直線は持続音と解釈しよう。なんでも良いが、これを書いているコンピュータからその音は出ている。今、近くの道路を車が通過していったが、これらの音は太い直線に平行して走っている短い直線にあてる。縦の線は家のきしむ音。右側に中心に黒い○を持った円があるが、これは扇風機からの音にできる。白い○は、なんだってそう思えばそうなるのだが、したたり落ちる水音にしよう(風呂場の水の栓を完全に閉めてなかった!)。ト音記号のついた五線譜が少しだけでてくるが、これには、トランペットの教本にある簡単なメロディーを少し頭の中で鳴らすことにする(実際の音はだしてない)。その他、なんだってそう思えば、いかなる音もある図形に関係づけることができる。例えば、今バイクが通過していったが、バイクのマフラーの断面が白い○を連想することもあろう。なので○はバイクが通貨する音。ある音から図形への関数(?)はいくらでもでっち上げることができる。もともとルールがないのだから、こじつけだってよいのではないか?
そう考えると、足立知美がプログラム・ノートに書いているように、"Treatise"は後期ウィトゲンシュタインの方に関係しているような気がする。となると、ここで「規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、どのような行為の仕方も規則と一致させることができるから」を持ち出したくなる。これもまたこじつけかもしれないが。