自己配信

子供の頃テレビを観ていて、新しいオモチャの登場を告げるCMが画面に現れるたびに複雑な心境になった。買わなければいけないような気がしたから。そして動揺が始まる。たぶん手に入れるのは難しいな。母親にねだっても、「本当に欲しいものかどうか、まず三日考えなさい。それでも欲しかったら、もう一度言いに来なさい。その時また考えます」みたいなことを言うに決まっている。だめでもともと一応言ってみるか……
お母さん、あなたは正しかった。正直本当に欲しいものも中にはあったが、大概は物としてはそれほど欲しくはなかった。ただそういうオモチャがあることによって学校生活が楽になるのである。それがあることで円満に事が運ぶと言うか、まわりに調子を合わせるためにと言うか、何と言うか。オモチャに限らない。身につけるものも含めて、“物”はいわば政治の道具である。これが次々と現れる。何か新しいものが登場するたびにドキッとしていたのは私だけではあるまい。しかし、子供の頃というのは、こういう今となってみればどうでもいいことに気をつかって生きていたものである。現代では状況はさらにシビアになっているのであろう。それとも違うのか?!
何でこんなことを思いだしたかというと、これが原因である。
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ああ、まさにこういう時代なんだな、と思うのと同時に上に述べた子供時代のえもいわれぬ感情が甦ってきたのである。私みたいなのがこういうサービスを利用できるようになるにはあと数年を要するであろうが、それが可能になったとして、その時にどうするのか?ひとつの選択肢として割り切れることが出来るか?
まず切実に思うのは、新しいメディアなりツールが出来るたびに、世間ではやたら「選択肢のひとつ」みたいなことが叫ばれるが、果たして我々は本当に選択なんかしているのであろうか?
私は携帯電話を持っていない。これは一応自分の選択である。私は携帯電話を否定していない。ただ自分で所有するのがイヤなだけである。ところが、今の世の中、携帯を持っていないとどうにもならないことが多々ある。仕事関係でも、遠まわしではあるが、持ってくれないかと頼まれることがある。いつだったかある仕事で待ち合わせ場所に来るべき人が来ないという事があった、しばらく待っても姿をみせないので公衆電話を探したが、これが全く見つからない。結局、来た道を30分かけて家に帰り、そこから電話した始末である。この話はまだ続く。家からボスに電話したが、出ない。多分二日酔いで寝ているのであろう。しょうがないので私は30分かけてまた待ち合わせ場所に戻った(いるかもしれないと思って)。しかし、誰も来る気配がないので、面倒くさくなって家に帰ることにした。すでに2往復である。家に帰るとちょうど電話が鳴り、これからそちらに行くという。まったくやってられない。しかし問題は、こういうケースであっても、悪いのは携帯を持っていない自分なのではないかと思ってしまうことである。もしもどこか人気のないところで人が倒れている現場に遭遇してしまったとしよう。私には携帯がない。そのことを私は罪に感じるのではないか?
新しいツールが登場する。確かに最初は選択の問題であるかもしれない。しかしそれを持つことがスタンダードになると、今度はそれがあることを前提に世の中が組み立てられていく。今世間ではTwitterなるものが流行っている。試しに私もやってみるか、と思ったのはいいが、しかしこれ携帯を持ってなければ意味がないんじゃないだろうか?
考えてみれば、場末の飲み屋に行けば酔っ払いのオヤジの本物のつぶやきを聞くことができる。これらだってメディアではないのか。私の周りにも――流石に携帯のない人は少ないが――仕事以外ではコンピュータやインターネットに接することがないという人は多い。そんなことより他にやるべき事があるからである。まぁ中には本当にお金がなくてコンピュータを持てない人もいる。しかしその人に向かって「そんなお金もないのか?」と言うのはあまりにも思いやりを欠いた発言である。それどころではないような状況が押し寄せてきているのだ。そしてその状況を生み出した元凶がまたインターネットだったりするかもしれないではないか。
私は考えることが好きだし、書くことも好きだが、こういうブログみたいなところで何かを述べるというのはあまり気の進むことではない。倫理的に悪なのではないかとすら感じる。では何故書くのかと問われると、それは、しょうがないから、こうでもしないと身を守れないからである。罪を犯してまでも生存していたいのである。持つことも罪、持たないことも罪。私達のようなアパッチ系ミュージシャンにとって状況はとても厳しい。ブログやら、Twitterやら、ミクシーやら、世の中にコミュニケーション・ツールは数多くあるが、こういうものを利用して効果があがるのは本来それらがなくてもいいような立場の人達である。下に下れば下るほどそれらは必要不可欠になってくる。やむをえず手を伸ばすわけだ(多くの人はそれに気づいていないかもしれないが)。にもかかわらず、せいぜいうまくいって現状維持である。せっかく生産体制が整ったというのに、新しい機械を買えという。今はそういう時代ではないと。まぁ年貢は減るみたいだし、仕方ないかと、いう感じでこのニュー・オーダーに従うまでの話である。小作人の苦労は絶えない。いっそのこと全ての電子メディアが消滅して、宣伝は瓦版、となるほうがアパッチ系音楽家にとってははるかにましな状況が訪れるのではないかと思うが、こんな愚痴を言っても埒があかない。否定しても何も始まらない。
しかしまあ音楽家というのは因果な稼業である。とりあえずライブは除くとして、自分でメディアを作ることができない。録音作品を作りそれを売るとなれば、レコード、CD、配信等のその時代その時代にスタンダードとされるシステムを利用するしかない。もし自己配信が可能になったなら、私はそれをやると思う。しかしもはやそこに喜びはないであろう。単に生き延びるための手段として利用するまでだ。これをもはや「選択」とは言えまいしかし、その頃までに、私はもう疲れきって、すべてを放棄しているかもしれない。
私は「愛」とか「夢」とか「希望」とか「明日」とかが頻繁に歌詞に登場する歌を信用しない。こんなことは誰でも言える。とても何かが表現されているとは思えない。それらに続いて最近気になるのは「平等」である。この言葉は「愛」と同様に人が一生をかけてその意味を考えていくような言葉のひとつである。にもかかわらず、それが軽々しく――時には商売の謳い文句として――使われていることに苛立ちを感じずにはいられない(これは実際に「平等」と言う言葉が使われているかどうかの話ではない)。もちろん言わんとしていることは分かる。そして分かった上で言うが、「平等」は、その中に含まれることをよしとしない存在を考慮にいれないことで成立するものだ。平等に扱われることが困る立場もあるわけである。 「平等」が蔓延することによって、それらの立場が排除されることにはなりはしないだろうか?まぁ保護はされるかもしれない。しかしそれは「平等」の傘下に入ったのと同じことである。表現の多様化を言うなら、ここは真剣に考えなければならないところである。多様なものが「平等」に並ぶということは果たして何を意味しているのか?
ある人は言う。もし音楽の自己配信が可能になったら、今まで以上に多くのゴミが発信されるだろうと。それはそうだと思う。ハナクソに色を塗っただけのような音楽(それを音楽といえればだろうが)が大量に垂れ流され、しかもそのハナクソをいかにも価値があるかのように言いふらして、そして小銭を稼ぐ、そういう扇動家もより以上に出現するだろう。“今日は今日の私、明日は明日の私”みたいなキャッチコピーができて、音楽(色とりどりハナクソも含む)の消費化によりいっそうの拍車がかかることも予想される。しかし、これはどうでもいい。ハナクソの味方をするわけではないが、ハナクソは本来消費の対象ではないからこそハナクソなのであって、こういうところに登場してはいけないのである。あなた達はハナクソとしてのプライドがないのか!と私は叫びたくなるだろう。
問題は、それがよしんば本当に意味ある作品だったとしても、音楽はより売れなくなるであろう。いや売れるものはより売れ、売れないものはまったく売れなくなる。貧富の差は拡大することが予想される。自分で音楽が配信できるのだから、そりゃ、自分で作ったほうがてっとり早いのではないか。より手軽に音楽が制作されるような魔法のツールがおいおい開発されていくだろう。お金はこちらのほうに多く流れるはずである。餌がありすぎるから数は増えるが、捕食者しかいないので、やがてはその種が全滅する。これに似たことが起きるであろう。いや作る人の数は減らない。作ることがすでに消費になるだろうから。全滅するのは音楽である。こういう状況にあってプロ音楽家の役割とはどのようなものになるのか。それを考えてみるのは興味深いことだ。カリスマ的ハナクソ製造家も出現するだろうし、塗り絵(手軽に音楽が作れるツール)の指導としての職もあるかもしれない。しかし食える人の数は減るであろう。実験音楽家なんて、最初に粛清の対象となり、“島流し”か、改宗させられるか、ム所送りであろう。むろん、「実験音楽」というジャンルは残る。しかし、これがかつて知ったその音楽なのか、という形に変貌するだろう(これはもうすでにそうか)。
まぁ、CDなどのパッケージ・メディアが生き残ってくれれば、救いの道はあるかもしれないが、先行きは怪しい。自己配信が本当にひとつの選択肢であれば、それは音楽の可能性を開くかもしれない。実際に様々なメディアがあるということは素晴らしいことである。しかし世の風潮はそうではない。これは音楽に限らず実生活でも感じることだが、世の中はある統一に向かっているように見える。私は、自分が自己配信は素晴らしいことであると言う事は、結局この統一化に一票を入れることだと思っている。それはやむを得ずやることであって、進んでやることではない。後退戦のために止むを得ず利用しているだけである、そう思いたい。ブログもTwitterも同様である。CDですらそうと言えるかもしれない。何が自己表現だ、こんなものが表現であるか、やりたい事は全く別の世界にあるはずである。しかし、やっている限りはすでに一票を入れたのも同じである。このジレンマをどうするか。心では、投票用紙にハナクソをつけて、ついでに唾でもはきかけておこう。あとは、表面上はへらへらとやり過ごす。いつか訪れる起死回生のチャンスを待って(多分来ないが)。アパッチや小作人はこういう態度で行きたいものである。座頭市も言っている「あっしは裏の道理はわきまえているつもりでして」。融通無碍にいきたいものだ。ゴミ箱をあさって生きている人間もいるわけだから、ゴミ箱をなくしてはいけないのである。この比喩の意味が分かるでしょうか?