ちょっと長文です

天狗と狐
(杉本拓 宇波拓
2010年12月03日
19:30開場 20:00開演
2000円+1drink
loop-line
http://www.loop-line.jp/


南方熊楠は文通相手の返事が来るのを「まだかまだか」と待ちかまえていたらしい。私も石橋さんの返事が書かれるのを同じような心境で待っていた。それを読んでからまた何か書こうと思っていたが、しかしもう待ちくたびれた。それを待たずに私は書く。自分が前に書いたものを読みなおしてみて、まあだいたい言いたい事を言っているのは分かったから、もうやめようとも思ったが、それでもまだ言い残していることがいくつかあると感じたから、それはやはり書かないと自分で収まりがつかない。
何故「実験音楽」はだめなのか?「ロック」や「ジャズ」や「トラッド」だったら同じ様な拒否反応はでないはずである。またそれぞれはサブ・ジャンルを持っているが—「プログレッシブ・ロック」だったり「フリー・ジャズ」だったり「ブリティッシュ・トラッド」—、それらを持ち出しても別に問題はおきないでしょう、多分。ジャンルなんて人が(文化や社会としたほうがよいかもしれないが)決めるものである。昔—今はどうか知らないが—ニック・ドレイクのレコードは「ブリティッシュ・トラッド」の棚にあった。彼の音楽は恐らく「シンガーソングライター」だろう。けれどもそれが「ブリティッシュ・トラッド」に収まることについて、私は違和感を持たなかった。「ブリティッシュ・トラッド」にニック・ドレイクをいれてしまうような体系がすでにあったから。私も、即興演奏はもう年に一回やるかやらないかだが、”Improvised Music from Japan”のメンバーである。CDがディスク・ユニオンの棚に並ぶ時は「アヴァンギャルド」のコーナーかそのサブ・ジャンルであるところの「音響」であろう。もうこういうことはどうでもよい。「沈黙系」だろうが「ニュー・コンポジ・スクール」だろうが、なんだってかまわない。ただ、自分で自分の音楽を説明するときはもっと平均的で当たり障りのない言葉を使いたい。それが「実験音楽」である。
実験音楽」(”experimental music”)とはケージやフェルドマンや(初期から中期にかけての)カーデュー等の流れを汲む音楽を指す。そういうことになっている。「実験音楽」とはもう十分にポピュラーな音楽ジャンルである。私の音楽がそこに含まれるか否か、ということも当然人が決めることである。ある筋では、どうやら私はその一員であるみたいだし、別の筋ではそうではないらしい。どっちであろうが構わないが、変な造語で自分の音楽を説明するよりは、とりあえず「実験音楽」と言っておくのが面倒くさくなくて良いのではないかと思うのである。それに、正直言って、私は「実験音楽」が好きである。その流れがなければ自分が今やっていることは成立しないと思っている。歴史なんて関係ない、音楽は自由に作るものだ、という人もいるが、もし何からも自由な音楽があったとしても、それは音楽ではない。ただそれだけのものである。そしてそれを我々は理解できない。過去や現在のいかなる音楽も参照先にないのであれば、何故にそれを音楽とすることが出来るのだろうか?例えば宇宙人がある日やって来て、フットボールの試合を観ながら「何て素晴らしい音楽なんだ!」と言ったとしよう。これは論理的には可能な話である。しかし、この際に、宇宙人の発言が(我々にとって)意味を持つには、宇宙人の言うところの(感じるところの)「音楽」が我々の「音楽」と(ある程度は)一致しなければならない。ああ、この宇宙人は我々がロックやサンバや民謡なんかを聴いて得るある感じと似たようなものを—音楽を—フットボールの試合を観ることによって得ているわけなんだ、とその宇宙人の発言を理解するのである(本当のところはまるで違うかもしれないが、それは我々の理解の外側にある)。
なんか、書いているとつい脱線してしまうなあ。実は言いたい事はまだあまり書けてない。少し速度を速める。「実験音楽」は、扱う音に関しては。「ジャズ」や「クラシック」や「伝統音楽」のような体系を持たない。これを突き詰めていくと、「実験音楽」が「実験音楽」である所以は、それが最終的には音を問題にしてないからではないかと思うのである。確かにケージやフェルドマンは音を問題にした。だが、ケージやフェルドマンの音楽を技法的に発展させても、それは「実験音楽」ではないような気がする。「実験音楽」がその歴史で継承してきたものは「音楽とは何か」という問いではないだろうか?音楽についての音楽、音楽の哲学、これらを音を使って実践することではないだろうか?
ジャクソン・ポロックの絵画について「彼は抽象的な美術作品ではなく、それそのものであるところの物体を作っている」と書いた評を読んだことがあるが、私のやりたいことはそれの反対である。すなわち、音を抽象的な記号として扱うこと、音がどのような意味をもってしまうかを見届けること、それらをエレガントに実行することである。とはいえ外観も大事である。やはり古臭い形式を持ち出すのは嫌である。しかし、これが最終的な目標であるにしても、やり方には注意しなければいけない。つまり、ひとつのやり方を追求するのではなくて、いろいろな方向から攻めなければいけないのではないか、そういう直感があるのである。
結局は流れてしまったが、何年か前にアメリカでキース・ロウとデュオをするという話があった。そのために私が考えた曲は、それぞれがe-bowで鳴らされるひとつの音を時間軸に沿ってヴォリューム・ペダルで上げ下げするだけというものであった。これを演奏するには別にキースである必要はないし、私である必要もない。多少の心得があれば誰だって出来る。私はもう組み合わせの音楽にはうんざりしている。十分な個性を確立している音楽家を組み合わせても、それなりのものは出来ても、新鮮なものは出てこないんじゃないかと。人はキースの奏法の独自性にその音楽の価値を見ている。それは他の人には出来ないことであるだろうから。私に対しても、まあそうだろう。それはそれで結構である。結局、表現とはそういうものから逃れられないのかもしれない。しかしである。そういう音楽的個性を後生大事に持ち続けるというのは本当に必要なことなのだろうか?
普通の音楽(と言わせてもらうが)はそれで良い。サンディー・デニーは他に替えがきかないし、ハフラー・トリオもそうであろう。私のフェイバリット・ギタリストはJ.J.Caleだし、ボンゾ・ドッグ・バンドは憧れである。みんなそれぞれ個性的な音楽を作っている。これらを楽しめるのはあるシステムが働いているせいだと思うが、これは仕方がない。そういう文化の中で育ってきたから。私は朝食を「緑のたぬき」にすることもできるし「どん兵衛」にすることもできる。家でパスタをゆでることもできる。私はそれを自由に選択できる。ある音楽を選ぶということはこれと同じ様なことである。それはせいぜい趣味の問題にすぎない。もちろん趣味というのは我々の文化を支えているひとつの重要な要素である。自分の好きな音楽について—あるいはラーメン屋でも立ち食いそば屋でもよいが—友人と話す事はとてつもなく楽しい。結局ここからは逃れられないのかもしれない。だが、それでも、すべてを趣味の問題にして良いものか?
良いとか面白いとか、自由に選択できるとか、そういうのとは無関係な音楽があってほしいのである。そういうものが「実験音楽」である。石橋さんは、「実験音楽」とつけると聞き手はかまえる、と書いていたが、なんでかまえちゃいけないのだろうか?例えば30分の沈黙を含む作品があったとして、その30分は前後にどういう音があるかによって、その質が変わってくる。すべての時間を経験しなければ意味がない(もっとも、すべての時間を体験しても得るものがあるとは限らないが)。こういう音楽を—内容が告知されていたとして—かまえずに聴くことはなかなか出来ないと思う。実際に聴きはじめればリラックスして聴く事もできるかもしれないが、そこに乗り込むまではかまえてしまうものじゃないですか?こういった作品はCDにすることも難しいし(それをあえてするという手もあるが)、「フリー・ジャズ」のようにフロアでかかることもない。単に30分フロアに何もかからないことがあったとしても、それはその作品の30分の無音とは違うものである。こういう作品は音だけで成り立っているわけではない。それが他の音楽と並列に聴かれるだけでその本質が消えてしまう音楽だってあるのである。自分の作品でも、前後に他の音楽をいれたくないようなものがある。だから、基本的には、気楽に聴けるようなものではないのである。というか、ある制限のもとにかろうじて成立するような音楽なのである。もし、30分間サンディー・デニーが流れて、その後30分間の沈黙、それがずっと繰り返される、そういう作品があったとする。そうすると、そのサンディー・デニーは普段聴いているサンディー・デニーとは違うのではないだろうか?この作品で使われたサンディー・デニーの音楽をそれだけ聴いても、それはその作品の一部を聴いたことにはならない。「実験音楽」においては音だけが問題になっているのではないのである
なかなか本題に入らないなぁ〜。また長々と書いてしまったが、今回本当に言いたかった事は実は別にある。もう例の討論会からだいぶ時がたってしまったが、忘れないように書いておきたいことがあるのだ。その討論会について、twitterやらブログやらなんやらでずいぶんと色んな書き込みがなされた。ひどい悪口も色々あったけど、あまりに下品すぎて相手をする気にもならない。まあ向こうも意見を言っているんじゃなくて、たんなるカタルシスでしょう。ホースの服部君が、ネットはちょっとした発言が相手を知らず知らずに傷つけてしまうメディアだ(だからこそ注意して書かなければいけない)、みたいな事を言っていて、それは私もうなずいた。悪意のないものもあったんだろうと思う。しかし、私が面白くないのは、ちゃんと考えて書いた文章というのがほとんどなかったということ。というか文章と言えるものがあったのだろうか?あの討論会に対して否定的な感想を持つのは分かる。だったらちゃんと書いて欲しいと思う。まったく何の議論も起こってない。それは問題じゃないですか?!
もっとも悲しかったのは、角田さんがパレルモと音楽の関係を話していたことに対して、「音楽と美術の関係なんて聞きたくない」とか「アカデミズム・コンプレックス」とか「うんちく」とかの発言があったこと。そんなのはただの駄々っ子の発言でしょう。「いや、音楽と美術について、お前の話している事はおかしい。俺はこう思う」と自分の考えをいうのなら分かる。しかし、音楽と美術の関係についての話はいらないと切り捨ててしまえば、すべておしまいですよ。音楽について話す事は、音楽と他の物事との関係を話すことでもある。中でも「音楽と美術」は最重要トピックのひとつではないだろうか?それに角田さんは美術家である。それを「いらない」と言ってしまったら、あとは何を話せばよいのだろうか?私はアカデミーがどんなことをやっているのか知らないが、美術と音楽について語ることが何故アカデミズム・コンプレックスに結びつくのか?我々は何かについて真剣に考えてはいけないのか?そういうことはアカデミーの連中に任せておけと、音楽家は音楽だけやっていれば良いし美術家は美術だけやっていれば良い、そういうことだろうか?もし、そう思っているのだとしたら、それこそアカデミズム・コンプレックスなんじゃないだろうか。言うのは勝手だから良いけど、そう思う理由を書いて欲しい。どうせならもっと堂々とやらなくちゃ。悪意があるなら、そう読まれるだろうことを意識して書いているなら、もって胸張ってやってくださいよ。たたケチをつけるのは誰でも出来る。きちんと自分の意見を書いて欲しいと私は思う(本人的には単なるお漏らしだとしても、悪意あるものとして受け取られるもんですからね。私も注意しないと)。ついでに書くと、私は2チャンネル等の匿名で書けるメディアというのは面白くなる可能性を本来持つと思っているが、実情は単なる悪意のハキダメに堕している。確かにこういうはけ口も必要なのだろう。うまく事を運ぶ人間とダメな人間がいて、ダメな方が適当な対象を見つけて憂さを晴らしているのだろう。この気持ちは成功している人間には分からないと思う。私もダメな人間である。だが、こういう世界にはいたくない。もっと堂々とダメでいれば良いのではないか?だが堂々としていると今度はこちらが悪意の矛先になる。
結局のところ、我々ループライン一派(とあえて書く)のやっていることを快く思わない人達がいて、例の討論会がその人達にとってケチをつける絶好の機会になった、そう結論付けることにした。悪口を書いた人の多くは私達の音楽を知らないと思う。だけど討論会であれば、音楽そのものにふれずにケチをつけることができる。ライブにいったりCD買ったりするのには金も時間もかかる。ユーストリームやブログを観るのはただだ。一切のリスクを負わずに好きなことが書けてしまう。だけど書く以上は覚悟を決めてください、ということは先に書いた。私はCDを買わないし(買えないし)、ライブにいく予算もあまりない。自分の周りの人達のCDを聴いて、彼らのライブばかり行くことになってしまう。他の人達が何をやっているのかはよく分からない。私は石橋さんのレーベルのCDを一枚も聴いたことがない。わざと聴かないようにしているのではなくて、聴く機会がないからである。要するにお金がない。私は自分のことをやるだけで精一杯である。こういうことは程度の差こそあれ、みんなそうなのではないだろうか?かつて一緒に演奏していた音楽家の何人かと私はそれぞれ別の地で仕事をしている。私は大友さんにはもう3年ほど会っていなし、アミちゃんに会ったのも2年ぶりくらいだった。ところが討論会の頃は(偶然に用事が重なったにしろ)宇波君に一週間連続で会っていた。中村(としまる)さんやキャプテン(秋山徹次)には、連絡などとらなくても、道や飲み屋で毎週のように会っている。それぞれのやっている音楽は全く違うが、ゆるやかな共同体を作っていると言えなくもない。私はその中の多くの人のお世話になって音楽をやっている。実際的にも、精神的にも。キャプテンとは掃除の仕事もたまに一緒にするが、昼休みには、「キャプテン、この前のライブどうだった?」「いや〜、有料入場者ひとりだったね。そのひとりも途中で帰ったし、最後までいた人はメンバーの知り合いでスタッフじゃないかな」「・・・・」「ギャラとして2000円もらったけど、打ち上げに4000円払ったからね」、みたいな会話を楽しんでいる。私は自分の音楽活動を商売に例えるなら駄菓子屋だと思っている。近所の子供に飴を売っているようなもんですよ。酒屋でも八百屋でも良い、そういう町内のお得意さんを相手にする商売である。他の商店との協力関係もあって、たまにはヨーロッパの個人商店を手伝いに行ったりもするし、むこうからもこっちの店を見に来ることがある。CDは全世界で100枚も売れればいいし、ライブには5人くらい来ていただければ万々歳の商売である。それで首が回らなくならないようになんとか工夫すれば良いのである(バンドは大変だと思う。スタジオ代がかかるのはしょうがないとしても、ライブハウスのシステムで儲けを出すのは難しい)。
多分こういう呑気な態度が選民的に見えるのだろう。興味のある人だけ来ればそれで良いと思っているんでしょう?と。はい、その通りです。駄菓子屋にもプライドがある。私は特別なものをやっているという自負がある。だから、それが面白くないと言われてもなんとも思わない。はなから、そういうところには狙いを定めてないから。

これ書くのに丸一日を費やしてしまった。ちょっと疲れたんでこれでやめます。ほぼ言いたい事は言いました。「実験音楽」の話はとりあえず終了です。勢いで書いているので、支離滅裂かもしれませんが、本にでもなるときはもう少しまとめます。では、では。