生ループを終えて

家ではインターネットに接続できなくなった。契約をやめたのである。やめた一番の理由はお金の問題だが、それだけでもない。何かしばらくそういうものと距離をとりたくなったのである。もちろんメールをチェックしないわけにはいかない。他で接続できるところはあるのだが、毎日は無理だろう(出きるだけがんばるが)。なので、急な用事がある方は電話をください。
しかし、ただインターネットに接続できなくなっただけで不便この上ない。けれども、しばらくはこの不便さを楽しむことにしよう。しかし、インターネットは利便性だけでなく娯楽を提供する装置でもあった。すでにテレビもオーディオを我が家から消えうせているが、ついに最後のオモチャもなくなってしまったわけである。
さて、本題に入る。先日、私は『朝まで生loop』という討論会に出た。これはユーストリーム(って未だになんだかよくわからないのだが)でも放送されたので、多くの人が観て、それぞれいろいろな感想や批判や拒否反応等を持ったことと思う。討論会そのものが面白いものになったのかどうかは私にはよく分からない。たぶん失敗だったような気もする。でもそれはどうでもよい。私は最初から特にどうしようか考えてなかったし、どうなってもよかったから。こういうものは、ほとんどが下らないジョークで埋め尽くされていても、そこに2〜3の考察に値する発言があれば儲けものだと思っている。飲み会の延長、ないし飲み会そのものであっても良い。「そんなものを人に見せるのか?」と問われれば、「それで何が悪いのか」と答えるだけである。これは私の考えで、他の人は違う考えをもっているはずである。
そう、人はそれぞれ違う。その違う人が集まって、何かまとまりのあるものになるはずがないのである。仕切りが悪いだとか、テーマがはっきりしないだとか言う声を多く聞いたが、それがはっきりしたところで内容が大きく変わったとは思えない。仕切りを解体させ、テーマからの脱線をいざなおうとする人もいるかもしれないではないか。なにより私がそういうタイプである。ただ討論会を意義のあるものにしたかったというのはあった。そうするために、なにも真面目にやれば良いというものではないと私が思っただけのことである。どうあれ、こういう機会を作ってくれたループラインには感謝したい。
言いたい事はだいたい言ったが、タイミングがあわずしゃべれなかったこともある。これについては別の機会に語るとして、疑問点をひとつ。「実験音楽」という言葉に対する拒否反応がなぜあんなにあったのかということ。誰だって自分の活動を一言でくくられるのはいやだろう。聴き手や批評する側にとっても、ある個人の音楽をカテゴライズすることに抵抗を感じる人もいるだろう。だが、私にはそれはわりとどうでもよいことである。こういうことを話題にする時には、自分が自分の活動をどう思っているかよりも、人がそれについてどう思っているかのほうがはるかに重要である。いくら私が自分の音楽はこうであると主張しても、それはある聴かれ方で聴かれてしまうのである。私は音楽をカテゴライズすることに賛成しているわけではない。だが、とりあえず「実験音楽」というようなよくわからないジャンルがあるとして(それはあるとおもうのだが)、それとある個人の作る音楽との距離、または親和性を考察すべきなのではないかと思うのである。私はそのようにして個々の「実験音楽」の定義が浮き彫りになると思っていた。でも、そうはなりませんでしたね〜。
話を単に「音楽」にすれば分かりやすいと思う。我々が「音楽」と思っているものの中には、やっている当人は「音楽」ともなんとも思ってないようなものがあるはずである。宗教の儀式はそうだし、民俗音楽の中にもそれはあるだろう。しかし、我々はそれを「音楽」としてしか聴けない。そうでないような聴き方もあるはずであるが、部外者がそれを会得するのはとてつもなく難しい。なので、とりあえず「音楽」を認めたうえで、そこから話をするしかないのである。
他に方法があるだろうか?どんな音楽もそれはただそれだけのものである。だがそれらは意味を持ち役割を持つ。ある表現が音楽かどうかは人(社会)が決めるものである。
だがそれでお終いではない。今現在、明らかに「音楽」という概念はある。これがあるゆえに、ジャンルがあり、個性があり、それぞれの効能があり、良い悪いがあり、CDや配信があったりする。つまりいかなるものも同じ聴き方で聴かれているということである。「音楽」とはあるひとつの聴き方を要請するものである。これについてはもうどうしようもないと言える。それはもう文化になってしまった。私の知りたい事は、「音楽」の傘下にありながら他のものとは違う聴き方を要請するようなものが可能なのかどうかである。私はそういうものがあってほしいと思う。民俗音楽でもなく、宗教の儀式でもない、そういうその内部に入ることでしか理解されないようなものではなく、一般的に理解される可能性を秘めたものを「音楽」の中に入れたいのである。それを私は探している。しかし表面的にはどうとらえられたってかまわないと思う。歳をとるとずるがしこくなるものである。多少の狡猾さは自分を守る手段である。
さて、今まで書いたことは助走である。私はこれから反論を書く。FNMの石橋さんが書いた文章に対する反論である。
私は石橋さんの書いた文章を何回か読み直してみた。最初は随分失礼なことを書くなぁ〜と思ったが、少し考えを変えた。人は何か言いたいことがあるから、文章を書くのである。
http://fmn.main.jp/wp/?p=2590 
http://fmn.main.jp/wp/?p=2598 
http://fmn.main.jp/wp/?p=2600
石橋さんの書いている事は単なる感想ではない。それは音楽に対する自らの関わり方を表明するものとして私は読んだ。きちんと自分の考えを言った事を私は評価する。確かに観ずに書いたことは避難されるべきことかもしれないが、それもどうでもよくなった。石橋さんには、観ようが観まいが、物申すことがあったのだろう。そこで、私も自分の考えを書くことにする。
私が石橋さんのブログから読み取ったことは次のようなことである。----音楽を聴く際にジャンルは関係ない。個々の表現があるだけであり、例えば「実験音楽」のようなレッテルは音楽をある枠組みにおいて聴かせることを促進するだけであって、個々人がその音にきちんと向きあえば良い。その結果、その音が大切なものであるか否かを個人が判断すれば良い。音楽とは、それを聴く人によって良いか悪いか、価値があるかないか、そういうものである----。
(もしそういうことを石橋さんが言いたかったとして)これは大筋で認めよう。いや違うな。私もおなじようなことを思っているが、何故そう思ってしまうかということに疑問がある。
確かにサンディ・デニーもハフラー・トリオを同じ様に聴ける。しかし、これが私にとって大問題なのである。私は英語を日本語のように読めない。英語を日本語のようには理解出来ていないというのもあるが、もし英語を十分に理解できるようになったとしても、英語で書かれたことと日本語で書かれた事は違うと思うのである。しかし、何故にイギリスの音楽もインドの音楽も同じ様に聴けるのであろうか?どうしてサンディ・デニーとハフラー・トリオが同じ様に聴けるのか(石橋さんは「同じ感覚」という言葉を使っているが、それもよく分かる)?私はイギリス人が聴くサンディ・デニーと日本人が聴くサンディ・デニーは違うということを言っているのではない(当然それもあるだろうが)。サンディ・デニーとインキャパシタンツを同じ様に聴いているイギリス人もいるだろうと思う。
音楽にジャンルは関係なく、ただ良いか悪いかだけである、と確信するようになるまでには相当いろいろな音楽を聴かなくてはならないだろうか。そうではない。もちろん個人差というものがあり、ある人のいう音楽は別の人のいうそれほどは広くなかったりするだろう。それは個々の音楽経験によって変わってくる。しかし、音楽をあまり聴いていない人でも「音楽にジャンルは関係なく、ただ良いか悪いかだけである」と思っている人は多いと思う。それは石橋さんが言うように、「同じ耳と脳」だからなのだろう。
だがその「同じ耳と脳」はある社会や文化に依存して作られたものである。サンディ・デニーとハフラー・トリオも同じ様に聴けるというのは、この社会にCDや配信やコンサートやライブなどのメディアがあり、またジャンル分けがあるからである。それらは相互依存しながらあるシステムを形作っていると思う。あるいはあるひとつのシステムからそれらが枝分かれしているのか。とにかく、音楽にジャンルは関係ないと言いながら(良いか悪いかだけであると言うのも同じことである)、どんな音楽も同じように聴ける、というのはおかしなことだと思うのである。
私は自分が作っている音楽もその同じ聴き方で聴けるものだと思っている。CDをリリースしているし、コンサートもやっている。ただし、その聴き方で聴いても面白くもなんともないようなものが多いだろう(すべてがそうだとは思っていないが)。自分ですらそう思うほどである。では何故やっているのか?それは、それをどう聴く事が可能か、またはどう聴けば面白いものになるのかを問いたいからである。別の聴き方ができるものなのか、それとも何であれそのような聴き方は不可能なのか、それは私自身も知らない。なので、自分で自分の音楽を説明できないのだ。だが、ひとつの聴き方を強制してくるシステムにささやかな抵抗をしたい、というのはある。もし私のやっていることにたいして、別の聴き方をみつけることができ、なおかつそれを音楽としてもらえるなら、それはとてもうれしいことである。
ここで、討論会で言えなかったことをひとつ言ってみたい。それは楽譜である。今現在、あるアーテイスト(作曲家であれ演奏家であれ)が作ったものを、CDなどの複製メディアやコンサートを通じて、聴き手が受け取る、そういうものが音楽のあり方のスタンダードになっている。作品とは完成された音であると。ところがそうではないような作品のあり方もある。かつて楽譜は今日でいうところのレコードやCDであり、楽器はプレイヤーだっただろう。楽譜を音楽作品として、あとはそれから各自がそれぞれの音楽をひきだしていく、そういうあり方もあっていいはずである。しかし、楽譜は音楽家(それもトレーニングを受けた人達)だけのものとなっている、というのが現状だ。確かに楽譜を読むのにはトレーニングが必要だ。偉そうなことを言っているが、私だって読譜能力は高くない。だが、もし楽器が出来るなら、楽譜を音に変換させる技術を会得するのはそれほど難しいことではないだろう。うまいか下手か、それはまた別の問題である。また一切の音楽訓練を必要としないような楽譜だってある。文字が読めて、その内容を理解できれば演奏できるような楽譜だってあるわけである。
とにかく、それは音楽体験ではないのか?しかしそう思っている人は少ない。楽譜を見て演奏する人がいて、それを聴く、というのが音楽だと思われている。その演奏というのはサンディ・デニーとハフラー・トリオを聴く時と同じ聴き方で聴かれるだろう。だが、楽譜を見て自ら演奏する音楽というのは、それとは違う聴き方を得るのではないだろうか?
私はアントワン・ボイガーという作曲家の作品を家でよく弾いているが、この人の作品は演奏者が積極的に関わっていかないとなかなか面白さを引き出せない。私はアントワンの作品を弾いたものをCD化しているが、それを聴くのと自ら演奏するのではまったく種類の違う経験である。
「選民」云々についても一言いいたい。私ははっきりと自分のやっている事を特別なことだと思っている。表現者というのは、程度の差はあれ、みんなそうなのではないですか?
人と同じことをやってもしょうがないでしょう。私は人間なんて基本的にはみんな同じだと思っているから、私が考えたり行動したりしていることは、他の人にも出来うることだと思う。私が今まで経験したことのないある経験をすれば、それは他の人にも起りうることである。人がやっている事は私にも出来うることであるが、すでにその人がやっているので、私がやる必要がない、それだけの話である。だから私が、自分のある音楽をサンディ・デニーとハフラー・トリオを聴くようには聴かれたくない、と言ったって良いと思うし、実際そう思っている。しかし、それがそのように聴かれ、まったく面白くないと思われても、いたしかたないことである。。むしろ、つまらないと思われていたほうが、気が楽である。石橋さんのブログを読むと、彼が嫌だと思っているような音楽こそ私がやりたいことなのではないか、と思うのである。私は自分の音楽を「かっこいい」とか「良い」とかは思われたくない。そう思われるような要素を意図的に消してやっているといってもよい。こういうことを言うから選民と言われるのだろうが、それは言うにまかす。(世間からは賤民のように扱われていますけどね。)
なので、私は討論会をやることによって自分の音楽の聴き手が増えるとは全く思っていませんでした。そんなことをしなくても、いずれ興味を持つ人は現れるだろう。もしも観客が増えたとしても、それは一時的なものである。興味を持ちそうな人に積極的に働きかけるべきだと言う声もあったが、仮にそれが出来たとして、観客の数が増えるだろうか?私は自分の音楽にお客さんが来ないのは、働きかけが足りないせいではなく、やっている内容のせいだと思っている。もう10年近く前だが、沈黙の音楽をやり始めた頃、それまでは20人くらいは来ていたお客さんがいっきに来なくなった。今でもそうだが、海外に呼ばれていっても、最初からお客さんはいないか、いても多くの人が途中で帰るかである。その中には私のやっていることに興味を持って来た人も含まれているであろう。そうしてお客さんの数は減り続け始め、一緒に演奏していた音楽家からも声がかからなくなった。
それは沈黙がどうのこうのではなく音楽がつまらなくなったせいだろうと思うかもしれない。その通り!だって私は普通に聴いても(自分も含め)面白くもなんともないような音楽がやりたかったから。今でもそうだ。ではどう聴けばよいのか?それは先にも書いたけど、分かりません。私もそれを知りたい。なんだかわからないし、恐ろしくつまらないが、これをどう聴けばいいのか、聴く事とは何か、みたいなことを思ってくれればいい。なんだかんだ言って、私は楽しんでいるのだが(それは普通の楽しみとは異なるにしろ)、どうすれば楽しめるのかは全く説明できない。
取りあえずこの辺いったんやめておく。