続き

なので、ある特定のジャンルが良いということも、ジャンルに関係なく良いものは良いというのも、私はあまり信じてない。どんなジャンルにも当てはまらない音楽、というのも幻想だと思う。結局は何かになってしまうわけだ。そして、それはしょうがないことである。「いや違う、私の音楽は○○である」と反論したところで埒があかない。人が、そして社会がそれをどう捉えるか、それで音楽の居場所が決まる。私はこのことを肯定的に利用するしかないと思う。ひとつのやり方として、システムをおちょくることは有効だと思う。ただ注意しないといけないのは、その際に自分自身もおちょくりの対象に入れなければならないことである。なにしろ自分自身がシステムに含まれ、そこから表現をしているからである。この手が有効なのは、どうせ完全にシステムから逃れる事は不可能なのだから、自分を笑うことで(自己風刺することで)、余計なことに神経をすり減らすことを軽減させることが出来るのではと思うからである。しかし、これもやりすぎるとだんだんと卑屈な人間になるかもしれない。だが、卑屈な方が自信満々よりはいくらかマシなのではないだろうか?私には、「音楽は自由だ」とかその手の自信満々な発言はもはや揶揄の対象でしかない。中学生の時にクラシックのオーケストラを聴きにいくという催しがあった。私はこの時の光景をいまでも憶えている(音は全く憶えてない)。やたらとさわやかな司会者が出てきて「皆さんの熱意が伝わると、ひょっとしてアンコールがあるかもしれませんよ!演奏には拍手で答えましょう!」と言った。私の心の声はこうだ「おい、おい、それだけは勘弁してくれ、こっちは早く家に帰ってテレビ観ながら猫と遊びたいんだよ」。当然、悪い予感は当たった。アンコールがプログラムに含まれているだろうことは最初からうすうす感付いていたから。しかし、司会者にしたって(そして演奏家も)、今日日の中学生の全員がクラシック音楽を好きだとは思ってないはずである。にもかかわらず、ああいう白々しい台詞を言わなければならないという欺瞞。悪夢はこれだけでは終わらない。コンサートは授業のひとつだったので、後で感想文を提出しなければならない。そこで「別に何も感じませんでした。早く家に帰って猫と遊びたいと思いました。終わり」みたいなのを提出すると呼び出しをくらう。偽らざる本心を書いてはいけないのである。しょうがないから、私もその頃までには多少の悪知恵がついていたから、大筋では似たようなことを書きながらも、「でも生のティンパニの音は初めてだったので驚きました」みたいな心にもない一文を付け加えたはずである。こんなインチキの応酬を強いる教育に何か意味があるのだろうか?先生の側にだってまったく興味がない人がいるはずである。しかし、クラシック音楽は権威だから、よく分からんが教育にはふさわしいのだろう、という盲信だけでそれを押し付けるのはどうなんだろうか?熱心なそして自信満々な啓蒙には大抵裏があると思ったほうが良い。本当はたいした根拠なんてないのである。だけどほっておいてはくれない。これが問題である。そりゃ〜卑屈にもなりますよ!(続く)