ホとウィ

会田君に教えてもらった哲学者、中村昇の本を図書館で借りて読んだ。
『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだか』
ホワイトヘッドの哲学』
ウィトゲンシュタイン
の3冊である。この3冊を同時に、というか平行して読んでみた。直感的にそうしてみただけなのだが、これがなかなか功を奏したというか、楽しく(そして深く)考えるきっかけを与えてくれた(ついでに、これまた図書館で借りたジョン・ケージに関する本も同時に読んでいた)。どうも、それが出来たのは、これはもちろん悪口ではないけれど、どの本もある同じことがらについて書かれているような気がしたから。同じ事を、言い方(文体)を変えて、アングルを変えて、主役----ホワイトヘッドだったりウィトゲンシュタインだったり----を変えて語り尽くそうとしているように思える。ただし、主役は違えど、登場人物はかなり重複している。デリダドゥルーズ=ガタリソシュールレヴィナスベルグソンフッサール等々の私になじみのない人たちがよく登場する。これらの先生方は私の苦手とする人たちである。というのも、彼らが登場する本というのは----本人によって書かれたものは言わずもがな----だいたい小難しくて、引用が内容と何の関係があるのか理解に苦しむ、ということが多かったからである。難しいものをさらに難しく装飾してどうするの?と私はよく思ったりした。
ところが、中村先生の本は読みやすい。もちろん、内容はとてつもなく難しいことを問題にしているが、平易な言葉で書かれているので、各読者がそれぞれ考えていけるようになっている。哲学の問題というのは、それが難しくて根源的なものであればあるほど、基本的には哲学的予備知識を必要としないのではないだろうか。それぞれが自分の問題をみつけるように読者を促しながら自身の哲学を展開する本、中村先生の本はそういう類のもので、そういうものが書けるというのは凄いと思う。こういう本なら、引用はむしろ歓迎で(というか私はもともと引用が好きである)、私は苦手とする哲学者達の著作を読んでみたくなった。特にレヴィナスは面白そうだなと思う。何でもそうだろうけど、気になるところをつっこんでみると、そこから世界が立ち現れてくる、その様を楽しもう。そんな気にさせる。
あと、どの本にも陰の主役として----水木しげるの漫画におけるねずみ男のように----入不二基義が登場するのも個人的にはポイントをあげる理由になった。私は入不二氏の『相対主義の極北』を読んで、それに非常に感銘を受けていたからである。
他にも、オヤッと思うところが多々あった。これらは哲学的にどうのこうのというところではなくて、むしろ個人的なことなのだが、例えば、私も、松岡正剛経由でホワイトヘッドを知った事、そのホワイトヘッドの"Modes of Thought”のあとがきを好きだった事、あと十代の終わりに暗黒舞踏にはまりかけた事等である(中村氏は一時期暗黒舞踏家だったとのこと)。
実はホワイトヘッドを本当に読んでみたのは、ほんの十年前のことであった。最初に読んだ(借りた)のは『自然認識の諸原理』(タイトルは違う訳だった気もする)。これはハードコアな科学哲学書の趣で、その方面の知識がない私にはほとんど理解できなかった。次に借りたのが----というのはそれしか図書館になかったからであるが----悪名高い『過程と実在』である。この本は、もうなんというか、脳に対する拷問のように難解で、20ページほど読んで(というかただ文字を追うだけで)放り投げてしまった。しかし、中村先生の言うように、確かに凄い事が書かれているような気がしたことは確かである。それに、この難解さはフランス思想の難解さとは様子が違っていた。そこで(私はけっこうしつこい)、次は"Modes of Thought”'に着手した。これを原文で読んでみたところ、そんなに英語が得意でないにもかかわらず、少し何かがわかったような気がした。ところが、その少しあとに本屋でその本の訳書を見つけたので読んでみたところ、まるで理解できないという感じではなかったが、それなりに難解ではないか。それにだいぶ受ける印象が違う。言語の違いは本の読み方を変える、そう考えるきっかけをあたえてくれたのも"Modes of Thought”であった。
何かを理解しようと思ったらそのことについて本を書けばよい、誰が言ったか忘れたが、そんな文句がある。ウィトゲンシュタインについてなら、私は書いたり言えたりすることが幾らかはあると思っている。しかし、ホワイトヘッドについてはほとんど何も書けない。彼の哲学について、何をどう書いていいのか、さっぱり見当がつかない。あれからもう何冊かホワイトヘッドの著作にふれているが、いまだにスタート地点にとどまっている。ただいくつかの素晴らしい(そして含蓄ある)フレーズを、それこそ詩を読むように楽しむ。私のホワイトヘッド理解はこれを出ない。ウィトゲンシュタインについて本なら山ほどあるが、ホワイトヘッドについての本はあまりない。やはり書くのが難しいのだろう。その点中村さんはたいしたものだと思う。非常に丁寧に、ディテール(これが重要)を大切にしながら、あれやこれやと検証し(このあたりは流石プロ!)、ホワイトヘッド哲学をわかりやすく解説している。いや解説ではないな。ホワイトヘッドを切り口にして“ある事柄”を巡る哲学に突入しようとしているな感じだ。ホワイトヘッドの哲学について書くと、誠実であればあるほど、こういう風になるのかもしれない。この本は、他の二冊もそうだけど、知識を得るための本ではない。今回読んだ中村昇の三冊の本はどれも、ある何か、ある事柄を照らし出す試みではないだろうか。その何かは、「地平線の向こう側」だったり、「絶対の倫理」だったり、「独我論を超えること」だったり、「語りえないもの」だったりする何か。その何かを追跡するには、その都度アプローチを変える必要性がある、だから登場人物も多くなってしまうのだろう。だいたい、ホワイトヘッドウィトゲンシュタインの両方に興味をもつ人というのはあまりお見かけしない(これは哲学研究者の身の上にはなかなか成立し難いテーマのひとつではないかな)。しかもそれぞれについて本まで書いている。こういう離れ業ができる人はなんか信用できる気がする。ホ氏とウィ氏、両者の哲学は全く違う。これは素人の私にもわかる。このふたり、もちろん実際に会った事は何度かあるだろうけど、会話は成立したのだろうか?お互いの著作を読んだ事があるのだろうか(『数学原理』は一応除外するとして)?
だが違うからこそ、その違いついて語れる立場なり土俵があるわけで、そこからアプローチする哲学も可能であるということか。
実は、私もこのふたりの哲学者に興味があるが、しかし、まったくの別物でまじりようがないと思っていた。麻雀をしながら作曲はできないし、酒を飲みながら散歩はできない、----どちらも、まあやろう思えばできるが----、それくらいかけはなれているように思えた。ウィトゲンシュタインを読む時にホワイトヘッドのことは頭をよぎらないし、その逆もしかり。しかし、英文を読みながら日本語を考える事はできる、そういうことか(何のことだ?)。
実はもっと長い(もう少しまともで内容のある)感想を書こうと思っていたが、今やっかいなテーマの原稿に取り組んでいて、それどころでではないという状況になってきた。それにもう本を図書館に返してしまって(今度は期日を守ってくださいと怒られてしまった)、今となっては内容はうろ覚えである。これは言い訳。



しつこく宣伝。練習しなきゃ!


2012年6月8日(金)と9日(土)
杉本拓ソロギターコンサート
大崎 l-e  
http://www.l-e-osaki.org/


6月8日(金)
"melody, silence"
作曲:マイケル・ピサロ
演奏:杉本拓(ギター)
19:30 開場
20:00 開演
1500円 + ドリンク
大崎 l-e  
http://www.l-e-osaki.org/


6月9日(土)
"sweet melodies"
作曲:杉本拓
演奏:杉本拓(ギター)
19:30 開場
20:00 開演
1500円 + ドリンク
大崎 l-e  
http://www.l-e-osaki.org/