今日、ズボンを古着屋で買った。実はズボンも一本しか持ってなかったんです。正確には、ビルメンテナンスのアルバイト用のズボンがあって、もう一本を洗濯中にはそれをプライベートでも穿いていたのだが。けれど、まあ、5〜6日は一本しかない正規のズボンを連続で穿いていたわけだ。流石にこれはミニマル過ぎた。
先週末は仙台に行ってた。泊まりは秋保温泉の旅館だったのだが、酒が抜けず、また面倒くさくなって、結局温泉には入らず。ちょっともったいなかったかな。しかし、近くに滝があると言うので、須貝君に運転してもらいそこに行くと、その森でついに野生のタマゴタケに遭遇。これは嬉しかった!もっともタマゴタケを栽培しているという話はきいたことがないので、野生のものしかないのだが、以前友だちに2〜3本もらったことがあるから、その姿を見た事はあった(もちろん食べた)。つまり野生の状態にあるタマゴタケを見るのが初めてだったわけだが、感動の質は大きく異なる。しかし、荷物になるので採取は控え、須貝君に携帯を借りて写真を撮るだけにした。須貝君には他の森にも連れてってもらって、その日だけですいぶんと色んなキノコを見た。楽しいオマケだった。
仙台にいくのはこれで3回目だったが、いつもと同じようにバスを利用。片道6時間くらいかかるので、目的地に着くまでに本が大概まるまる一冊読める。今回は、行きは『ユリイカ 特集ジョン・ケージ』(青土社)を読んだ。いくつか興味深い論考もあったが、全体としてはダメだなあ。軽い読み物やエピソード紹介、それに資料の提示も結構だが、もっと考えさせる論考があっても良いのではないか?それは難しい文章を書く事とは違う。ケージが提出した問いを、現在の状況を踏まえて、吟味するなり、別の可能性が潜んだものとして考えてみたりすることが、ケージや彼の音楽を引き受けるということなのではないのだろうか。どうせなら、ケージの未訳の文章やインタヴューをもっと載せてほしかった。
佐々木敦さんの「「四分三十三秒」のための約十五時間からの約一万字」はそれなりに考えさせるものであったが、佐々木さんの論考はいつも、まず言いたい結論がありきで、そこから議論が展開している気がする(あと、私が前に書いた事と内容がどこか似ていた)。でも、ソノ本が出版されたら、やはり読んでみたい。
一番面白く読んだのは小沼純一氏の「禅がかすって」。ケージとスティーブ・ジョブスを禅を蝶番にして論ずるというもの。こういうのは嫌いじゃない。面白い着眼点だと思う。もう少し長い物を書いてほしいと思ったが。それにしても、ケージは何故あれほどテクノロジーに対して楽観的だったのだろうか? バックミンスター・フラーとスティーブ・ジョブスは連続しているような気がするのだが、もしケージが生きていたら、ジョブスや現在のネットワーク社会をどう思うのだろうか? そこにはケージが否定できる要因があまりないと私は思うのだが。
あとは、正直言って苦手な論調だったが、仲山ひふみ氏の「「ポスト・ケージ主義」をめぐるメタ・ポレミックス」にはうなずけるところがいくつかあった。
帰りは仙台のブックオフで買った『科学者とは何か』村上陽一郎(新潮選書)。20年近く前の本だが、現在でも新鮮なテーマを扱っていて考えさせる。そして読みやすい。