core of bells

昨年の12/8、core of bells(http://coreofbells.biz/)の月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヶ月』の最終回「ここより永遠に」(そんなタイトルの映画がありました)に出演した。もともと観に行くつもりでいたが、何の因果か、演奏する側になってしまった。私はこれからその日のコンサートの感想をとりとめもなく書くつもりだが、それは当然お客さんの視点からではない。しかし、そこで起こったことを、楽しんだり、びっくりしたり、また笑ったりしたということでは、お客さんも演奏者も大した違いなないと思う。私はあの日にやった曲の構造やルール、それに全体の進行を知っていた。だけど、そんなことを知っていようがいまいが、驚きは別に用意されているのである。もちろん、知っているのそうでないのでは感じ方は違うだろう。私の感想は「知っている」サイドからのものである。しかし、それでもあの日に起こったことはやっぱり「わけがわからないこと」としか言いようがない。そこでは結局何が表現されたのか? というか、そもそも表現されるべきもの何かあるのか? 彼らはひとつの巧妙な装置を作った。それがどう機能するのか―――あるいは全くもって機能してないのか――を見届けようじゃないか、ということなんじゃなかろうか? 違うかな?
私はヴィオラを弾いた。私の演奏力はその楽器を堂々と「弾ける」と言えるようなレベルに達してないので、まあ出す音はほぼノイズになってしまうわけだが、だからと言ってそのことに負い目はまったく感じなかった。だって、まわりを見ると、バレーボールを延々とドリブルしている人、自転車のベルを鳴らすためだけに自転車ごとステージに上げている人、小豆を脚立の上から下に落としている人と小豆をといでる人(それぞれ妖怪の小豆はかりと小豆洗い)、そういう得体の知れない先生方がまわりを取り囲んでいるのだから。core of bellsのふたりのギタリストですらギターを弾いていない。それなのに、ステージでは計3人のゲストがギターを弾いている。これは一体どういうことだ? よく覚えていないが――我々のオーケストラは15人くらいいたのかな――、その半分がまともな楽器を演奏していない。(しかし、ちゃんとドラムとベースを残したのは流石である。このあたりのバランスのとり方はうまい!)
こんなラインナップなので、音の方もさぞかしトンチンカンなものになるだろうと思うかもしれないが、ところがギッチョン、これがなんとも素晴らしいノイズ・ミュージックなのである。私はその音響をとても面白いと思った。曲としてよく出来ていると感じたし、これだけを持ってしても、音楽界に何か物申すことが出来るようなブツなのではないか。
12/8のコンサートでは、我々一人につきひとつのステージを与えられており、このステージが会場のスーパーデラックス内に楕円の形で配置されている。お客さんはこの円の内側や外側の任意の場所でコンサートを体験することになる。あれ、これは何かに似ているな、と思ったら、それは私自身も演奏者の一人だった大友良英氏の"anode"だということに気がついた。(私はコンサートには行ってないので詳しくはわからないが、最近おこなわれたアジアンミーティングのコンサートの配置も、写真で見る限り"anode"の時ととても似ているなと思った。)まさか、もしかして、それの揶揄ですか?
同じようなことをしながら、もちろんCxOxBオーケストラの音楽は"anode"のそれとまったく違う。では、その違いはなんだろう?
"anode"に限った話ではないが、大友さんは共演する個々の音楽家演奏家)の個性や独自性といったものに基礎となるものを置き、それぞれの振る舞いを重視しながら、またそれらの総和としての音楽を問題としている。逆に言えば、個性や出自の異なる、あるいは音楽的なバックグラウンドが違う音楽家を集めて、彼ら自身の独自性を犠牲にすることなく、どのようにして共演出来るかという場を探す試みと言えるだろう。しかし、音楽家の「個性」や「独自性」というのはひとつのシステムから生み出された概念である。「個性」や「独自性」が存在しない音楽だってあるだろう。人に聞かれることを認めない音楽だってあるし、物や空気の振動という物理現象を伴わない音楽だってある(例えば、今私の頭ではある音楽が鳴っている)。様々な音楽のあり方をひとつの枠の中で並列させることが出来るというのは本当は不可能なのである。「様々な音楽」はひとつの音楽の聞き方から生じるものなのではないか? これがなければ、「違い」が分かることはない。色んな民族音楽は、それらが五線譜に書き写されることによって(あるいは音を聴くことによって)はじめて比較が可能になり、違いが認識できる。これを支えているのはひとつの統一的システムだ。この枠に収まるものが「音楽」なのである。だから、音楽の正体がその音響であるということならば、それらを並列させることは出来る。しかし、それは誰の音楽か?
最近は滅多に聞く事が出来なくなったが、豆腐屋のラッパに音楽を感じる人は多いと思う。しかし、この音がどんなに素晴らしいと感じても、もともとそれは「私はここで豆腐を売っていますよ」という意味を持っているのである。これと同じようなことが、我々が民族音楽と言っているものの中にないとは言い切れないはずである。というか絶対にあるに決まっている。いや、どんな音楽にだって、多かれ少なかれそういう要素があるのではないか。現代(近代)の聴取システムが成立するには、様々な音楽のあり方からその機能的役割や意味を引っこ抜いて、それを音律や和声やリズムに還元し、そのことによってそれぞれ音楽の違いが際立つようにしなければならなかった。これによって、様々な音楽を並列に扱う準備が出来た。表面上においてはである。しかし、表面を持たない音楽もあるのではないか?
例えば、上に述べたような並列的オーケストラとケージの『4分33秒』はひとつのステージで共存可能だろうか? 私は可能であるとも思うし不可能であるとも思う。『4分33秒』はひとつの聴き方なので、実際に鳴っている音は何でもよいと解釈できる、というのが可能だと思う理由。だが、もしそういう聴き方が出来たとしても、それでは出自の異なる様々な音楽を聴いていることにはならない、というのが不可能だと思う理由だ。つまりどちらかの音楽にしかならないのではないか?
音楽にはおおざっぱにふたつのアプローチの仕方があるように思う。論理学の用語を借りると(やや乱暴な使い方だが)、それは、音楽の表面を問題とする――実際に鳴っている音を問題とする――外延的聴取と、意味や聴き方を持って音に接する内包的聴取とに分かれる。しかし、表面だけを聴いているといっても、あるフレーズやリズムのパターンはどうしてもそれに対応する意味を示唆しかねないから音だけを聴いていることにはならないのではないか、という疑問もある。では、内包的聴取はどうか。私はケージの『4分33秒』こそその聴取の最右翼なのではないかと考えてきた。この曲は先に述べた通り、実際の音を問題にしていないように思えるのである。聴き方によって音楽はまったく違うものになる、そういう可能性を提示した曲だとと思うのだが。しかし、どうもケージはその後そういう方向に進まなかったように思えてならない。彼は音のシンタックスを拒否した。しかし、どんな音に対してもそういう風に聴くことは可能である。ベートーベンの音楽に対しですら…
CxOxBの選んだやり方はどのようなものだったのだろうか?最初に述べたように、私はその音楽をとても素晴らしいと感じた。要するに聴き方の変更を迫るようなところはなかったと思う。そのことに何の問題もない。それはそれ、ただの音楽としても楽しんで聴けるものであった。しかし、普通はこれでよしとするところに、彼らはよけいな「意味」を過剰にばらまいた。これがCxOxBのとてもユニークなところである。演奏者が形作る円の中央にはまたひとつの小さなステージがあって、そこには3人の男が立っている。彼らはゆっくりと動きながら何かを監視しているようだ。実は彼らはCxOxBオーケストラの指揮者である。お客さんはそのことに気づかなかったかもしれないが。いや我々にとっても彼らは指揮者というよりは怖いお兄さん達であった。演奏者を見張って、音の変化に関して制限を与えるという意味では確かに指揮者なのだが、その佇まいは刑務所の監視員を彷彿させるものがある。なぜかラース・フォン・トリアーの映画『マンダレイ』を思い出した。何故だろう。そんなところが実に味わい深い。もうひとり、4番目の指揮者とでもいえる人がいて、(確か)10分おきに楽屋から登場して時間の経過を知らせるのが役割なのだが、もちろんこの人にもキャラ(意味)が与えられている。「堺正章」とのことだが、あまりにも抽象化されているので、見ただけではわかりませんよ。でも分からなくたってそんなことはどうでもよい。また「子泣き爺」もいました。背後から演奏者に抱きついて、演奏行為を妨害するのである。彼もある意味では指揮者といえるんじゃないかな。演奏者の出す音を制限しているという意味において。となると、計五人の指揮者がいることになるが、どの人もその役割よりもキャラの方が目立つので、音楽とは独立した、おかしなことをやる変な人にしか見えなかったのでは? 彼らの役割を知っていたにも関わらず、私は彼らをそのように見ていたところがある。だからといって進行上何の問題もありません。
私が思う"anode"とCxOxBオーケストラの最大の違いは――それは今まで書いてきたこととも関係しているが――、前者が「豪華メンツによる夢の共演」的な性格を持つのに対して、後者が「妖怪、魑魅魍魎、フリークス達による地獄の宴」の様相を呈していることにある。バスケットボールをドリブルしている青年は本当にただそうしているようにしかみえないし、自転車の人は服装もそれっぽく決めていてまったく音楽とは関係ない人に見える。小豆にしたって、音が問題なら他のものでもいいんじゃないか? しかし、それを言ったら身も蓋も無い。ここはそういうところなんだから。
曲は様々な組み合わせのデュオが発生するしくみになっている。なので、バスケットボーラーやサイクリスト、あるいは妖怪とのデュオが楽しめるようになっているのだ。これが面白くないわけはない。即興演奏家で、バスケットボールか自転車のベルか小豆かを専門に演奏している人、そんな猛者は恐らくいないでしょう? ひょっとしていらっしゃるのかしら? それはともかく、ミュージシャンであろうがなかろうが、みなさんが独自の存在感を持っている。それぞれ醸しだしてらっしゃいますからね。なんかどこかの立飲み屋にいる気分になる。打ち上げの重要性を説くミュージシャンは多いが(私もそうだけど)、もはやこのライブ自体が打ち上げ状態に近づいていったのであった。もう一回やりたいなあ。


↓に出ます。この日はftarriでも夜のライブがあるので、二本立てです。

2014 core of bells 月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヶ月』総括会!
http://coreofbells.biz/?p=2935