存在の耐えられない軽さ

私はミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んでいない。クンデラの小説は『不滅』を読んだことがあるが、内容はあまり覚えていない。
何故『存在の耐えられない軽さ』を読まなかったのか?はっきり言って、私は小説をたくさん読むような人間じゃない。なので別に話題作にもさして興味がない。しかし、この小説の(日本語の)タイトルにはずっと興味がある。存在の耐えられない軽さ、とは何を意味しているのか。もしこの小説を読んでしまったら、この言葉の意味が固定されてしまうのではないか。私的にそれは困る。この言葉が色んな意味にとれる、ということを遊んでいたいから。
ある数学者が村上龍の『限りなく透明に近いブルー』という小説のタイトルは数学者的には心がゆさぶられる、と言っていたのをどこかで読んだ。それは青なのか透明なのか、限りなく透明に近いブルーなるものは存在するのか、そういうことが面白いのだろう。しかしこれは詩的な意味では理解可能である。そういう色が存在するかどうかは別として、意味は分かる。
存在の耐えられない軽さ
これはややこしいぞ。まず、普通に考えられるのは、<あるものがあって、それは軽すぎて存在することができない>、こんな意味である。<ここまで軽いのでは、こりゃ存在していることにはならないな〜>というあるものがあるということ。大概はこういう意味にとるんじゃないかな。
次に考えられるのは、<軽さ>が耐えられないのは自身が存在することではなくて、他の存在物である、というもの。<ああ木がある、自動車が走っている、街がある、人間同士の憎悪が世界には充満している、もうありとあらゆる存在に耐えることができない、それらすべての重圧に負けてしまう、そんな軽さがあるのだ>、こんな感じの意味である(何をもって存在物と言うのかはとりあえずおいといて)。
次に、私的にコレが有力なんだが、ちょっと説明が必要だ。日本語ではよく「太郎のバカ」とか「太郎のイジワル」とかの表現があるけど、これらが意味するところは大体<太郎はバカである><太郎はイジワルである>でしょう。これを採用すると、<存在とは耐えられない軽さである>、こうなる。コレ苦しいかな〜。もしこういう意味だとしても、詩的過ぎて何を言わんとしてるのかがよく分からないしね。どこかのCMにはいいかもしれないが。しかし、コレが文学の王道と言う気もするじゃないですか。軽さに耐えられないのは我々人であるのだから。「ああ、存在とは結局ひとつの軽さのようなものなんだ。その軽さゆえに、我々は普段それを意識することなく、それに押しつぶされ、それに耐えられなくなっていく。我々は存在のその本質である軽さに苦しめられているのだ」こんな感じの独白が聞こえてくる。しかし、たぶんコレは違う、とみんな言うだろう。コレだったら良いなぁとは思うんだけど。
まだ色々考えられんだけど、やめとこう。