420万円

近所に行きつけの酒屋があるのだが、今日ワインを買おうと1000札をだしたら、「毎度どうもね、420万円のおつりね」と店主は照れながら言った。420万円のおつりとか言う人はもう絶滅したと思ってた。しかし、この店主は自分でも言っちゃいけないなと思いつつ、でも言ってやろう、言ってみるぞ、と思わず口に出ちゃったんではないか。ギャグとしては面白くもなんともないが、笑ってしまった。こちらも「わはは、どうも!」みたいな感じで良いコミュニケーションが出来た。そういえば昔、今度は魚屋でだけど、一人のお客が「メス一匹!」と言うと店主が「年増でいい?」という応酬があった。これだけで全てが通じるから凄い。言葉は面白い。しかし、この場合は発する言葉は何でもよく、「アレ」、「あいよ」だけでも通用したんじゃないかな。ほんの最小限の事を言うだけで意味が通じるような、2人の間の言語体系(?)があるんでしょう。いや、我々誰もがこんな風にコミュニケートしているはずだ。所謂語用論の話になっちゃうけど、例えば「雨が降ってきたよ」という発言は色んな意味にとれて、それは<天気予報ははずれたね>かもしれないし、<今日の運動会は中止か>かもしれないし、<洗濯物とりこんで>かもしれない。誰がどんな状況で言ったかが深く関係している。それによって意味合いが変わってしまう。だったら、何故もっとあからさまに、例えば「洗濯物とりこんで」と言わないのか(もちろん、直接そう言うこともたくさんあるだろうが)。私が興味あるのはココである。魚屋の客が「サンマ一匹ください」と言って、店主が「コレでいい?脂のってるよ!」と返す。意味が通じるだけだったらこんな感じで十分だ。もっとも、我々は会話すらなしで買い物をしている時もある。コンビニでの買い物なんて、品物持っていって、後はお金出して、おつりもらって終わりでしょう。会話はなくてもものを買うと言う目的は果たせてしまう。しかし、あえて声を出して、しかも知恵をしぼって面白いことを言ってみる。こういうことはどんな働きをするのか。コミュニケーションの本質というのは意味が通じる、ということを超えているはずだ。イヤミとか皮肉を言うことは単なる意味を超えて機能する。そのような応酬になった場合、いかに相手より気の利いた言葉で返すかが相手をやりこめるポイントになる。親密さを深める時も同様だ。「メス一匹!」、実に洒落ている。コンビニに行ってそう叫んでも、相手はキョトンであろう。「メス」も「一匹」も意味は普通に通る。しかし、それに該当するものがなんだか分からない。しかし、その魚屋では分かる(親しくなればコンビにでも可能であるはずだ)。分かるとかいうより、それは一種の挨拶のようなものかもしれない。魚を買うことが挨拶みたいなものなのかもしれないから。その行為をちょっと色づけてみると何かが変化する。詩も同じような領域をあつかってはいないだろうか。書いてあることがその詩の本質ではない。言い回しでひとつの言葉・単語の意味あいが変わってくる。何故詩は普通の文章を読むように読めないのか。それは詩もコミュニケーションを要求していて、言葉のひとつひとつに、またその不思議な接合のされ方に対して、自分の何かを返していかなければならないからでは。もちろん、普通の読書でもそれは同じだ。しかし、詩に対してはもっと深い「メス一匹!」的な世界にまで入り込んでからコミュニケーションが始まるのではという気がしないでもない。