ライヴ情報

コンサートの宣伝でもしとくか。今月はふたつある。

室内楽コンサート vol.20
作曲・出演:杉本拓 大蔵雅彦 宇波拓
2009年1月20日(火)
19:30開場 20:00開演
2200円+ドリンク
千駄ヶ谷 Loop-Line
http://loop-line.jp/

杉本拓 作曲シリーズXIV
“6 - 1 & 6 - 2”
09年1月29日(木)
19:00 open/ 19:30 start
予約:2000円
当日:2200円
(1ドリンク付き)
出演:杉本拓(guitar)
   秋山徹次(guitar)
最近曲の単純化が進んでおりまして、今回のも弓奏と休みがひたすら繰り返されるだけです。弓奏部分の長さ以外は、音色、音程、音量等ほぼ一切が変化しません。弓は松脂を落としているので、出る音は鼻息のような音です。これが一時間から一時間半続いて終わり。
もともとソロ用の2曲をふたりで同時にやります。 (杉本拓)
於/キッド・アイラック・アート・ホール
http://www.kidailack.co.jp 03 3322-5564

最近は、特に自分の曲だけをやるコンサートでは、簡単にどんなことをやるか説明している。後から、あんな拷問みたいなコンサートだとは知らなかった、と言われるのを避けるためでもある。だいたい内容は説明しているんで、それなりに覚悟をもっていらしてください、なるべく文句言わないでね、というわけだ。何と消極的な宣伝なんだろう。大体どういう風に宣伝すればいいんだろう。私は、自分の音楽が楽しかったり、気持ち良かったり、分かりやすかったるする、そのような類のものでないことを知っている。日本ではそのへんの事情を知っていてコンサートに来る人が多いが、ヨーロッパとかアメリカとかではなんだかよく知らずに来ている人も多い。これは普通に考えれば良いことだとは思う。ところが向こうの連中の中には気に入らない音楽に対して何か文句を表現しなければ気がおさまらない人達がいる。途中で帰るなんていうのは当たり前で、空き缶やサッカーボールが飛んできたり、わざと音をだしたりゲラゲラ笑うやつもいれば、「ファック・ジャパニーズ」とか叫ばれたりもして、もうさんざんな目に私はあっている。もはやコンサートという状況ではなくなってしまうことが多々あった。真剣に聴きたい人もいただろうから(そう思いたいだけかもしれないが)、その人達には申し訳が立たないが、しかし、これはどうすることも出来ない。せっかく貴重な時間とお金を払って理解を超えたものに向き合わされる連中の気持ちも分からないわけではない。しかし平和な空間を維持するためにはこの手の連中にはなるべく来てほしくないというのが本音だ。気に入らない場合は、そっと出ていってバーで酒でも飲んでてくださいよ、本当に。中には変り種もいたなぁ。あるフランスでのコンサートが終わって(この時も客の半数以上が消えていた)楽屋に帰ろうとしたら、ひとりの青年が入口のところで仁王立ちをしていた。またなんか文句言うのかよ、と思ってたら、その青年はこんな事を言った。「私があなたのコンサートを聴くのは今日で3回目だが、正直今まで一度も面白いと思った事はない。一体どうやったら面白く聴けるのか、その聴き方を教えてほしい」 う〜ん、面白いとか面白くないとかそういうことを表現したいわけじゃないからな〜。これこれこう聴けば面白いですよ、ですむ正解があるわけでもない。そもそも「面白い」とは何だろう。もしある表現が卓越したものであったら、それは「面白い」なんてものじゃないと私は思っている。もっと正体不明なものであろう。いつから音楽は感覚だけで(「面白い」もコレのひとつである)、それもせまい意味での感覚で処理されるようになったんだろう?あと、よく言われるのが、「何かビジュアル・イメージを持って演奏していますか?」みたいな質問。もちろん、そんなものはない。あったところでそのイメージは絶対に音に変換できない。演奏中は、どうやって弾くか、次の音があるまでの3分どうやって体をほぐすか、音の立ち上がりをどうするか、とかの実際的なことを考えていることが多い。「ああ、今日食ったソバはうまかったなぁ」とか「あと30分で終わりか。なんとか持ちこたえられそうだ。終わったらビールを飲もう」とかの不埒なことを考えてることもある。実際的なことに関するイメージは音に反映されるだろう。しかし、音楽は別にある。心に浮かんだものが人に伝わるわけじゃない。私がやってみたいのはいかなるイメージとも簡単に結びつかないような音楽である。これは本当に難しい。私は今これを書く合間に、目の前の白い壁を見つめているが、その壁はただの壁であることをやめて様々なイメージに侵食されていく。ラウシェンバーグのホワイト・ペインティング、ピエロ・マンゾーニの白い絵画、色は違うがイヴ・クライン、影のあるところはマーク・ロスコー。様々なアート作品の幻影(と歴史)がこの壁につきまとう。ここから視覚の対象としてのただの壁をとりだすことは極めて困難だ。視覚は脳と関係していて、脳は文化と関係している。美術の本質は物体ではない。そういう還元は本来不可能である。音楽にも同じことが言える。音楽とは音をどう聴くか /どうとらえるかで決まる。音楽は音ではなく、それを判断する際の言語である。言語なんだから、自由な聴き方などというのはありえない。ある決まりに従って聴くしかない。感覚ですら大抵の場合は言語の支配下にあると思う(これが一番貧しい言語を生み出しているのではないのか)。では、どうすればいいのか?別にどうも出来ない。そういうものだから。むしろ、それを自覚して、徹底的に言語に従わせ、イメージの複雑化をはかる。そうやって特定のイメージの奴隷にはならないように仕向ける。簡単には出来ないだろうが。単純な言語だけで判断されるのはもったいない。そもそも言語とはもっと複雑なものである。感覚にも別のものがあるはずである。音を還元させよう、というのは言語を還元させようというのと同じなのではないか?