共約不可能性

グッドマンの本がなかなかに手強かったので(やっと読み終えた)、気晴らしに他の本も読んでいたが、古本屋で安く見つけた『文明の中の科学』(村上陽一郎)が興味深かった。特に後半に登場する所謂共約不可能性の問題は実に考えさせられる。
「共約不可能性」とは、トーマス・クーンやポール・ファイヤアーベントが主張した、異なった科学理論、あるいは文化において同一のもの(価値や意味)はないという考えである。
音楽を例に取ると、Aという文化に属する音楽aとBという文化に属する音楽bはまるで異なるということになる。もし文化Aに属する個人が音楽bを理解しようとする場合、もし文化Aに属するツール(たとえば西洋の記譜法等)で音楽bを理解したならば、それは文化Aの文脈で音楽bを理解したことになる。もし同じような音階や和性または楽器が使われていても、それらの意味や価値はまるで異なるからで、もし音楽bを本質的に理解するならば、それは文化Bの文脈においてでなければならない。しかし、それでは文化Aに属するものが文化Bの音楽bを理解したことにはならない。文化Bに属するものとして(あるいはそれに近いものとして)音楽bを理解したことになるのである。よって、ふたつの異なった文化に相互理解は存在しえない、ということになる。
ところが、ここに問題がある。AとBが異なると主張するならば、それはどのような立場から可能なのか?それは、Aの文化においてBを異なるものと主張することと(あるいは反対にBにおいてAを異なると主張すること)とは一段違う立場からでなければならなくなる。そこで、“AとBを異なるもの”として俯瞰できるような立場ωが考えられる。しかし、これでは「共約不可能性」が言い立てられなくなってしまう。「共約不可能性」はωのような立場からしか主張できないのに、その主張はωを否定しているからである(”ωとA”のような包含的関係も否定している)。
上に述べた事は村上氏の考えを(もし勘違いしていなければ)、手短に、私が翻案したものである。ここから先は私自身の考えを少し述べる。
私達は、恐らくωのようなものが存在することを無意識にでも仮定していなければ、あらゆる表現や発話が困難になってしまうのではないか。私はそう思う。「共約不可能性」が包含的関係を否定する時、Aとその下位にあるA1、さらにA1とその下位にあるA11のような関係も当然否定されなければならない。我々は日本に育ち、同じ文化を共有しているが(それをAとしよう)、あるものはそのA中のA1の文化にも、さらにはA2やA3の文化にも属している(同様に、(A11、A12、A13 )や (A111、A112、A113)や(A121、A1222、A123)、以下続く、が考えられる)。具体的に言うと、例えば、鮨と鰻は文化的背景も調理法も全く異なったそれぞれ別の料理である。寿司職人と鰻職人は全くことなった世界に住んでいるかもしれない(少なくとも料理の世界では)。しかし、鮨を食べることと鰻を食べる事はまったく異なった文化的経験なのだろうか?これは”日本食文化”のような立場に属するふたつの食文化である。両方を扱う職人もいるだろう(実際に家の近所にそういう店があるので言っている)。その線で行けば、立ち食いそば屋と手打ちそば屋は“そば文化”に、きつねそばとたぬきそばは“そばのメニュー”に属する。(もちろん他の分類も可能で、手打ちそばと鮨を”日本高級食文化”とすることも出来る。これについては、きりがないのと、またグッドマンの哲学に近づいてきたので(話を単純にするため)打ち切ることにする)。
もう少しだけ、音楽を例に話を進める。例えば(どちらも国産の音楽ではないが)、ジャズとロックでは使用する言語が異なる。このふたつのジャンルの間には、鮨と鰻と同様に、「共約不可能性」があると言えるかも知れない。だが、ここにも、ジャズもロックも演奏する音楽家がいるし、それ以上にジャズもロックも聴く音楽愛好家がいる。彼らは一体どこの文化に属しているのか?”音楽文化”なのか”アメリカ文化”なのか、それとも別の何かなのか?さらに、あるモダン・ジャズのカルテットではギター奏者とサックス奏者のあつかう言語は異なる。これはどういうことか?共約不可能なふたつの(よっつの)言語があるひとつのモダン・ジャズ(という言語)を共有している。こう考えるしかないのではないか。
A1とA2は共通の言語Aを通して理解が可能になり、A11とA12はA1を通して理解される(以下続く)。ならば、我々はAという文化に属していながら、ωという視点も持っているのではないか、ということになる。さらに言うと、Aに属しているという概念がωという視点からしか導き出せないのであれば、結局我々はωに属していることにはならないだろうか。”ジャズ”に属してないと思っている“モダン・ジャズ”や“ビッグ・バンド”の演奏家はいない。“音楽”をやっていると思わないジャズ奏者もいないだろう。”モダン・ジャズ”を演奏しているということは“音楽”を演奏していることである。文化Aを文化Aに属しているものが理解するということは、その人が文化ωに属しているからである。文化Aに属するものが文化Bを理解するのは、“モダンジャズ”のギタリストが、“ジャズ”という一つ階層が上の言語を通して、“ビッグ・バンド”を理解することと同じようなことなのではないだろうか?この考えは荒唐無稽ではないと思う。
さて、様々な文化A、B、C、D、E、・・・を理解できるωを認めただけで万事がうまくいくかというと、まったくそうではない。異なる文化AとBとCはωを通して理解が可能である、ということはそれぞれがωに属していることではないかと私は考えた(村上氏はラングωのαヴァージョン、βヴァージョンという言い方をしていて、αやβのローカルへの帰属を強めているように感じる)。だが、当然ωに属していないような文化X、Y、Z・・・の存在もあるはずである。XがAを理解するためには、またはAがXを理解するためには、Xはωに属さなければならない。ところが、我々の理解を超えた文化があるのではないか、そういう思いが我々にはどこかないだろうか。芸術においては”まったく分からない”という表現(方)が存在する。すくなくとも過去においてはあったはずだ。しかし、理解されない、ということが成立するためには、それを判断するための上位の階層がなければならない。何において理解できないのかが分からなければ、”理解できない”と言い立てることが不可能なのではないか?「X、Y、Z・・・を理解できない」ということが出来るのはωの立場ではない。それはさらに上の階層でなければならない。
それをω2としてみる。そうするとX、Y、Z・・・は“理解できないもの”としてω2では理解される。しかし、XがAをω2を通して理解するようなことは出来ない。ここでおかしなことになる。Aに属するものは、それはωにも属することになり、ω2の立場からXのようなものを”理解できないもの”として理解は出来る。しかしXに属するものがどのような形であれω2やωやAのようなものを理解する事はない。ω2を理解できるのはωに属するものであって、これはつまりそれらがω2に属することになる(私のこれまでの考えでは)。しかしXはωの成員でもω2の成員でもない。ω2にとってはXは”理解できないもの”を言い立てるために必要な成員であるが、 Xにはω2に属しているという自覚はないのではないか。Xのようなものとωとがたがいに異なったものと言い立てるためにはω2を認めなければならないが、Xにとってはω2もωもAも存在しない。Xはそのようなものとして考えられる。Aに属するものがXを”理解できないもの”として考えているからだ。
しかし、もしXがωに属していて(それを自覚していて)、Xの方からはω(またはω2でもいいが)を通してAを理解できるが、Aの方からはωを通してもXを理解できない、または”理解できないもの”として理解する、そのような事は考えられないだろうか?Aの立場から”Xを理解できないようもの”として理解する、そのことがXをXの立場からはωに属していないと考えることになる。これがおかしいのかもしれない。それと、いつAやBやCのようなものがωを通じて相互に理解しえるようになったのかという問題がある。それらωの正規の成員はかつてはXのようなものだったのではないのか?
そう考えるのは、ωが所謂グローバリズムのように思えなくはないからだ。ωのようなものがあったとしても、それが「グローバリズム」であるかのごとく思うのは私のかってな妄想である。しかし、ωがそのような性格を持つと仮定して納得できる事は多々ある。文化ωが様々な文化A、B、C・・・を傘下に入れていく過程で、文化A、B、C・・・の方でも文化ωを理解し自らがその成員であることを自覚していく。ωはω2となりω3となりω4となってその成員を増やしていく。「人類学」、「共約不可能性」、「相対主義」、「ポストモダン」といった概念がその派生物として誕生する。これらのどれもが自らの主張を正当なものにするには外部の立場を必要とする。ヒラリー・パトナムは古い相対主義--「文化や観点は複数あり、それらはすべて等しく良い」ということ--を”偽装した絶対主義”と批判した。それは「なんらかの外部の有利な立場からのみ言いうることだからである」。そして「合理性に関するわれわれの観点が、それ自身の立場からしても欺瞞的なであること、つまり、一時的で抑圧的な制度を単に合理化したもにすぎないことを示そうとする」新たな相対主義の主張に対しては、「われわれは基本問題に関して、さらに、方法論の問題に関してすら意見を異にしうる。だが、われわれは、議論に耳を傾け、お互いの前提と推論を検討することができる」と言っている(『実在論と理性』(ヒラリー・パトナム)「哲学者と人間知性」(佐藤労訳)p249)。

とここまで書いたところで、珍しく原稿の依頼が来た。それに集中したいので、続きはそれが終わってから。


ところでアネッタ・クレプスが来ます(というかもう日本にいる)。かなり面白い人物で、それが音楽にも表れていると思う。私も5年ぶりに共演します。


Annette Krebs
Kid Ailack Art Hall 3 days

6/10
duo with 杉本拓

6/11
trio with 大友良英 宇波拓

6/12
duo with Sachiko M

各日
open 19:30 / start 20:00
予約 1700円 当日 2000円 3日間通し券 4000円
キッドアイラックアートホール (03-3322-5564)
http://www.kidailack.co.jp/

ベルリンのテーブルギター奏者アネッタ・クレプス、4年ぶりの来日。
親睦の厚いミュージシャンとのデュオ、トリオに一日ずつじっくり取り込む、三
日間の公演です。

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2009/6/13/(Sat.)
Annette Krebs ・ 宇波拓

open 18:30 / start 19:30
予約 1800 当日2000+1drink
at 京都下鴨 yugue
京都市左京区下鴨松原町4−5下鴨神社西側御影通りと下鴨本通
河原町通り)の交差点の西北角、白れんがが目印。ガソリンスタンドの筋向か
い酒屋前。
予約:
ezakimasafumi [at] gmail.com
075−723−4707(yugue 開店時に限る。)

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2009/6/14(Sun)
Annette Krebs ・ 宇波拓
guest 江崎將史

open/start/ 19:00/19:30
予約 1500 当日1800
at 神戸塩屋 旧グッゲンハイム邸
神戸市垂水区塩屋町3−5−15
予約:
guggenheim2007 [at] gmail.com
tel 078-220-3924
fax 078-202-9033
http://www.geocities.jp/shioyag/

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アネッタ・クレプス プロフィール

67年生まれ。フランクフルトでクラッシックギターを学び、93年ベルリンに移り住む。膝においたギターと、エレクトロニクスを用い、具体音と電子音によるデリケートな音楽を追求している。おなじくベルリンのアンドレア・ノイマン、ロビン・ヘイワード等をはじめ、各国のミュージシャンと共演。最新 CDにハープのロードリ・デイヴィスとのデュオ”kravis rhonn project”がある。01年、04年についで三度目の来日。