短編集

*“天狗と狐”で影絵をやっている後遺症か、やたらと日常の光と影が気になる。つい見とれてしまう。特に木の葉が揺らめく様の美しいこと。それを見ながら神社の階段を下っている時は、ソクーロフの映画の登場人物になった気分だった。

*『じゃりん子チエ』(高畑勲監督)をDVDで観た。映画は猫の決闘で終わる。チエの顔がハイジに見えることがよくあったが、これは作画監督のせいでしょうね。

*その高畑監督の『思ひでぽろぽろ』を観てたら、ハンガリーのミュジカーシュが音楽に使われてるんですが、最後のクレジットのところで、レーベル名が<HUNGARATON>になってた。正しくは<HUNGAROTON>です。コレに気づいた人は流石に少ないだろうなぁ(どうでもよいことでもあるので)。

*飯村隆彦の『パリ=東京映画日記』を読む。映像を使った時間の分節、これは私が"principia sugimatica"でやりたかったことに通じるものがある。所謂コンセプチャルな芸術が扱おうとしている領域は、かつては科学のそれと重なるところがあったのではないか。今日の「科学」はソレを追い出した。そして「ソレ」は芸術からも追い出されかかっているんじゃないか。本を読んでいてそんなことを思った。

*猫が顔を洗う、と言う。しかし、私は顔じゃなくて手を洗っているんだと思う。