季節の記憶(仮)

季節の記憶(仮) 

只石博紀監督の『季節の記憶(仮)』の試写に行った。
うーん、この映画について何かを言うことはとても難しい。それは実際に映画を観ればよくわかるはずである。こんな話ですよ(というか、そもそもそれすらよくわからないのだけど…)、とか、あのシーンが良かった、とかを言っても――もちろん好きなシーンは沢山あるけど、この映画について何も語ったことにはならない。私はそう思う。
でも、これだけはまず言いたい。この映画に似たものは――私の知る限り――何もない、ということと、この映画が何にもおもねていないということ。「好き/嫌い」とか「良い/悪い」とかの判断をすることの前に、「あれはなんだったんだ」という想いを観客にいだかせ、そこからそれぞれ個人がそれに対する思考を喚起させる、もっと言えばそれが映画の「中身」であるような、そういう類の作品は現在の「映画」の中にあまりない。
もうひとつ。私は、7月のおわりに渋谷で只石監督の2作品、『季節の記憶(仮)夏篇』と『Future Tenseを観た後、10月にヨーロッパ演奏旅行からの帰りの飛行機で『スター・ウォーズ フォースの覚醒』(あまりにかけはなれているなあ)を観るまで、まったく映画を観ることが出来なかった。私には長い余韻が必要だったのである。

ここから先は『季節の記憶(仮)』を観て私が考えたことを言おうと思う。それは『季節の記憶(仮)』という映画作品についての話というよりも、それを観ることによって、私が想った、想起した、思考したあれやこれやである。そうする以外にこの映画に関して何かを言うのはとても難しいからである。

まず「偶然」について。
誰しも身に覚えがあると思うけど、こんな偶然が起こるのか、ということがたまにある。私自身に起きた偶然をまず語ろう。
高校3年の時に同級生がバイクの事故で亡くなって、その葬儀に向かう時に駅でばったりと中学の同級生に会った。どうもその彼もなくなった同級生の葬儀にいくらしい。こんな偶然は珍しいので詳しく話を聞くと、彼の亡くなった同級生が運転するバイクの後ろに私の亡くなった同級生が乗っていたのだった。
こんなこともあった。もう15年くらい前の話であるが、私はコンサートのためにそこで一緒に演奏するギタリストと共に、ウィーンからベルリンに飛行機で飛んだ。着陸後、飛行機から空港へ乗客を運ぶバスに足を踏み入れた瞬間、目の前にいる女性のキャーリー・バッグの上にあった一冊の本に大変驚いた私は、隣にいた同行者にその本に視線を向けるようにそれとなくうながした。その本の著者が彼だったからである(ちなみに私はその本を彼の部屋以外で見たことがなかった)。
もっともこういう偶然はわかりやすい――だからこそ「偶然」が成立するのだけど。話のネタとしては面白いが、そんなに重要視するようなことか、とも思う。
例えば、ひとつのサイコロを10回連続して投げたところの結果が<1111111111>や<1234512345>となったほうが、<3156422346>みたいな一見ランダムな並びよりも「偶然」としての驚きが大きい。しかしどんな並びになろうが、その確率は同じである。<1111111111>的な数字の並びには、多くの人がそれを特別と感じられるという「意味」が与えられているからにすぎない。私の体験した偶然は、それが個人的なレベルにただ降りてきただけの話であって、その「意味」はとてもわかりやすいものだ。私の誕生日は12月20日なので(そういえば『季節の記憶(仮)』の試写の日も12月20日だった)、昔住んでいた家の近所に”1220”という名前のバーがあった時は喜んだものである。私はその店の写真を撮って自分のCDのカバーにまでした。つまり、そういう類の、「意味」があらかじめ用意された偶然はわかりやすいのですよ。
だが、普段は意識されない上に、それが明らかになることも少ないが、物事には必ず何らかの関係がある。私が葬式に向かうときに利用した駅、あるいはベルリンの空港でのバスの中で私が遭遇した物や事や人と私の間にもそれがあったことは間違いないのだけど、ただわからないだけなのである。
『季節の記憶(仮)』には、生のまま丸投げされている人や物や事や時間や空間の中に、意図的な行為を進入させることによって、他のやり方ではなかなかできない、物事の偶然の関係を考えさせるような映像をいくつも見ることができる(しかも、わかりやすい「偶然」までも取り込むことに成功しているのが凄い)。普段条件づけられているものとは違うやりかたで、そこに「意味」を発見していくことはとても面白い。私は思うのだけど、そういう隠された――すぐにはそれと気付くことのない――関係を突き詰めて解明しようという行為によって、自分を取り巻く世界というものがいかにあるか、ということを直感することが出来るのではないだろうか。大げさかなあ?

また、この映画は、不確定な部分を含む、ある種の実験音楽(の作曲作品の録音)に似ていないだろうか?時間が決まっていて、その中で指示されたことを人間がおこなう、ということと、ヴァージョンの制作が可能だからである。私は音楽家なのでこういうことを考えるのだけど、この映画の脚本はそのまま音楽作品の楽譜になるのではないだろうか。違う点は、もしそれが録音作品となる場合、カメラが偶然に捉える景色に相当するものが、音楽ヴァージョンにはないことである。つまりそれは『季節の記憶(仮)』という映画から映像を抜いただけのようなものになってしまう。
20年以上も前のことだが、初めてポータブルのDAT録音機を買った私はそれを持って、街の音を録音してみた。その機械とマイクの操作に慣れるためで、それ以上の深い意味はなかった。ところが、その録音を聴いてみて、普段耳にしている音とマイクを通して録音されたものの聞え方の違いに大変驚いた私は、何でもかんでも録音して、それを聴くということに熱中することになる(それを自分の音楽の素材にしようというセコイ意図はまるでなかった)。
だが、もしそこにカメラという「変数」を加えるとどうなるのか?それはより意図的になるか、非意図的になるか、どちらかなのではないだろうか?マイクは志向性の高いものを使った場合でも多くの音を拾うが、カメラはそれが向いている光景(のある一部分)しか撮ることができない。反対に言えば、無志向性マイクが果たすようなことがカメラには出来ない。しかし、この点でも『季節の記憶(仮)』は面白い。脚本(あるいは「指示」)という意図と無造作に置かれるカメラという非意図が拮抗するような作りになっているからである。これはどう逆立ちしても「音楽」には出来ない芸当である。 

只石さんは以前写真を撮っていたとのこと。私はジョセフ・クーデルカJosef Koudelkaの撮る写真、特に”Exiles”のシリーズが好きである。面白いと思うのは、多くの写真が、一体どういう状況でどういう人やものや動物が写っているのかがよくわからないことだ。この人達は果たして何をやっているんだろうかと… もっと言えば、それらの写真に写っているものは、実際にその写真を見るまでは想像すら出来なかったような光景だと思うのである。
『季節の記憶(仮)』にも似たようなところがあって、「この人達はどう関係でそこにいて、何をやっているんだろう」と思ってしまう。多くの映画はそんな余計な事を考えないでよいように出来ている。説明不要であるところの数々のルールのもとに作られているからである。
私の母方の祖父は工学者で大学教授であったが、とぼけたところがあり、テレビドラマを見ていて、「あれ、この人はさっき死ななかったっけ?」みたいなことを言うことが度々あった。「回想シーン」という約束事を知らなかったからである。
普通はこういうことは起こらない。言葉を覚えるように、そのルールが了解されていくからである。だからこそ、「それをぶち壊そう」みたいな、こう言ってはなんだけどが、「メタ」な映画も多く作られてきた。
だけど、只石さんのやりたいことはそういう試みとはまったく関係ないと思う。映画界とか、映画の歴史とか、それをいかに発展させるか等の問題から自由で、たまたま映像を使って表現したことが「映画」として観ることの出来るような作品になったのではないのかと思う。そこで表現されていることはもっと根源的なもので、そこに私は感応したわけである。「この人達は何をやっているのか」はわからなければいけないことなのだろうか? あるいは、わからないからよいのか? この答えは「映画」というシステムの中からは見つけられないと思う。だからこそこういう映画の存在意義があるではないか?

『季節の記憶(仮)』は新宿のK’s Cinemaで1月20日から26日までレイトーショーで上映されます。私も観にいきます。でも、ごめんなさい、私はこの映画を誰にも彼にも「面白いから観てください」と推薦する気にはなれないです。ただそれを必要とするだろう人に情報を届けたいという想いはもちろんある。「衝撃作」とか「問題作」みたいに一言でまとめたくもない(そういうのは出てくるだろうなあ、まあ実際にそうだから)。だから、少し長めに書いてみました。でも、全然書けてないです。