最近

刑事コロンボ』をよく観ている。『水戸黄門』並みに多いお約束の数々。だけど、これが面白くて観てるようなもんなんだよね。中には筋書き的に、これちょっとおかしいんじゃないの、というのもあるが、要はコロンボの立ち振る舞いが楽しめればそれでいい。最初は定番の小池さんの吹き替えで観ていたのだが、ピーター・フォークの声も味がある。物真似研究中。
話は変わって、せっかくマンドリンを持っているのでブルーグラスでも練習してみようという気になって、色々聴いたり譜面を見たりしてほんの少しは弾けるようになったのだが、しかし、それが一体何なんだという気持ちが残ってしまう。結局ただの趣味じゃないの。さらに思うのは、もともとこういう音楽は(ブルーグラスに限らずブルースでもジャズでも)、それが生まれる共同体とか時代的な必然性があって発展してきたものであったのに、今はそういう背景はなくなってただの抜け殻になっている。果たしていた役割は別のものに変わってしまった。ほとんどがただひとつの音楽としてしか聴くことしか出来なくなった。
伝統とかも本来はそれが果たす機能や役割が社会のなかにあって意味をなすわけであって、それがないならただの空虚な形式だけである。空虚な形式になってからそれらは鑑賞の対象となる。私は寺とか神社を徘徊するのが好きだが、その時何も特別な気持ちはない。単に古いものや造形の面白いものが観たかったりするだけである。外国に行って城や遺跡を見物しているのとあまり変わらない。要するに鑑賞である。なじみがあるかないかだけの違いだけ。寺や神社が機能しているような共同体に私は属していないからだ。もちろん冠婚葬祭などの理由で寺や神社を訪れることもあるが、そういうときほど形式性が目立つのである。伝統があるからそういう行事を寺や神社でやるのではなく、要するに単なる習慣ではないのか?そんな気すらおこる。寺の坊さん達はそれなりに伝統を継承しているのかもしれないが、我々お客さんはよく分からずにそれにしたがっているだけなんじゃないのだろうか。
私が多少関係している伝統は”飲み屋”だが、これだって何百年後かは美的な鑑賞対象になっているかもしれない。幸い、今は飲み屋に求められているのは美ではなくて、もっと実際的なものである。こういう場所は社会的にも必要とされていて、なおかつひとつひとつの飲み屋はゆるい共同体を形成していると言えなくもない。”美”がそこから切り離されてない。
立飲み屋とかでテレビを観ていると、遠い昔は酒の場で生演奏が果たしていたような役割を今はテレビがしているんだな〜、と思う。不特定多数の集まりでうまく機能するような音楽はもはやない。こういう今は失われたものを無理に再生しようとするとたいがいは悲惨なことになる。音楽に限らず、例えばよくあるレトロな意匠を施した飲み屋とかあるけど、ああいうのは嫌だな。嘘じゃないの。自然にそうならないと。チェーンの居酒屋の方がよっぽど誠実な感じがする。
よく現代音楽なんかで伝統的な要素を入れようと、日本だったら琵琶とか尺八とか筝とか三味線とかを使って作曲されたものがよくあるけど、ほとんどの場合それらがこっけいに聴こえるのは、使われている楽器が本来のコンテクストから切り離されて使用されているからではないだろうか。というよりそれらの楽器が本来奏でられるようなコンテクストそのものがもはやなくなってはいないだろうか。私は琵琶も尺八も生で聴いた経験はないし、三味線ですら時代劇の中でしか聴いてないんじゃないだろうか。日本の美がどうのこうの言うのも私は少しおかしいと思う。”日本の美”なんてものは最近出来た概念であって、物事がそれ本来の伝統の中に生きているうちはそれは”美”ではない。
マンドリンブルーグラスを弾くのも、ギターでブルースやルネッサンスリュート曲を弾くのも(最近よくやっている)、結局は”美”や”楽しみ”をそこから得ているだけである。琵琶や尺八よりは身近に感じるだけだ。しかしコレを奪われると、CDも聴けないし、映画にも行けず、名所観光も『コロンボ』を観ることもできなくなってしまう。それは困る。
しかし、今芸術の役割とは一体何なのだろうか?たぶん、”美”を切り離してそれを楽しむことではないようなものが求められているのではないか。ケージは「我々は楽しみすぎていないだろうか」とかつて言った(どこで言ったかは忘れた)。せまい感覚の奴隷になってはいけない。それを回避するために芸術に何かが出来るのではないか。私はそう思うのだが、そういう芸術は回りを見渡しても実際には誰も求めていない・・・。