ひとりごと

キッド・アイラックでのソロ、脚立に登ってブラシでひたすら壁を擦った。一体何をやっているんでしょうね。いや、やっていることは壁を擦っているだけ、それは分かる。しかし、これが音楽的に、又は美術的に意義あることなのかどうか、そういう事は分からない。演奏中も、別に楽しくもなければ深遠な気持ちになることもなく、どちらかと言うと冷めていて、おまけにブラシを持つ手も体も痛い。手ごたえもほとんどなし。単に、こういうことをやってみたいなと思って、それを実行しただけ。別に普通の楽しさははなから期待してなかったが、見事に予想は裏切られず、(肉体的)苦痛がそれに加算されただけであった。これを聴いて(観て)、お客さん達は何を感じたのか?それもまったく分からない。昔だったら、自分の演奏がよかったり悪かったりというのが何となく分かった。手ごたえとかはそのあたりから生じる。今もそういう世界から完全に手を引いたわけではない。良い悪いというのは音楽の世界にあって、それは、まぁ、あるべきだと思う。ひどい音楽はやはり嫌だ。それでも「ただやる」、「こういうものを存在させる」みたいな世界にはとてつもない魅力があって、いつもそれに吸い寄せられてしまう。やはりバカなことが好きでしょうがない、そういう自分からはのがれられない。問題は、今はバカなことでもそれが芸術の一形態として承認されてしまうことである。だけど、それは仕方のないことで、バカはいつか文化に取り入れられて、そこに秘められたエネルギーは限定的な働きしかしなくなる。自分がいまやっていることだってかつてのバカの焼き直しかもしれないし。しかし、そうではない、という直感が私にはある。芸術というのは我々をとりまく社会状況と無関係には成立しない。あるものは制度に守られその中で役割を果たし、あるものは制度の外に居場所を見つけようとして闘う。しかし後者にしたって、いずれは制度に設けられる新たなひとつの枠におさめれれてしまうのである。そうなった後で、人々はある芸術家について、芸術の運動についてあれやこれや言うわけで、現在の芸術に対しても制度の側からしか判断できなくなってしまっている。新しいだの古いだの言う時、それは何を基準にしているのか?そもそも芸術は新しくなくてはいけないのか?例えばケージは何か新しいことをしたのだろうかと思う。サティはどうか。彼らが音楽でやったことは、それ以前は音楽とか芸術と呼ばれてなかったような何か、それの継承なのではないだろうか。彼らはただやるべきことをやっただけで、結果として残された音楽の表面的な形態の新しさだけを論じたところでしょうがないと思う。私は彼らが継承しているものは要するにバカなものなのではないかとにらんでいる。その本質は形態の外にある。そうであればその形態が時間の経過と共にいくら制度に収まったところでどうでもいい。その本質は焼き直すものではなく、いつだって必要とされているものである。ケージが言う「なすべきことをやるだけである」というのはそういう意味なのではないか。制度の外に新しさを作るのであれば、もう無理のような気もするが、それはバカらしいものの中からしか生まれない。これを絶やしてはいけない。