競馬の快楽

あっ、その前に。なんと"実験音楽スクール"定員に達したみたいです。というわけで、応募は締め切ります。


『競馬の快楽』 上島啓司 (講談社現代新書)が面白い。
拾った本なのだが、パラパラめくっていると、南方熊楠の南方マンダラの図が出てきてびっくりした。えっ、何の本なの、コレ? ネットで調べると、著者の上島氏は宗教人類学者とのこと。76〜79年にシカゴ大学大学院に留学とあるから、ひょっとしてミルチャ・エリアーデに学んだのだろうか? この本が出版された(94年)頃、私はエリアーデの本をよく読んでいた。宗教学に興味があったというより、ルーマニア出身の作家や芸術家に興味があったのである。シオランアフォリズムにかぶれ、ブランクーシの彫刻に惹かれ、ルーマニアの現代音楽や民族音楽を聞き漁った。実際にその国を見てみたいと思って、一ヶ月ほど自由旅行したこともある。もちろんルーマニア語なんてしゃべれるはずもないし、当時は英語もダメだった−−もっとも英語がしゃべれたところで大して役には立たなかっただろうが。いろんなところに行って、多くの面白い体験をしたが、これはまた別の話。
さて、私はギャンブルをやらない。パチンコは19の時にやめて以来一度もやっていない。ちょっとした小博打−−麻雀とか花札とか−−を仲間内でたまにやるくらいである(ゲームは好きなのだ)。ところが、周りにはギャンブラーが少なからずいて、競馬とか競輪とかパチンコの話をよくしてくれる。彼らの話を聞いていると、軽いめまいを感じることが多い。私の小市民的金銭感覚を超越した、その豪快なお金の注ぎ方がめまいの原因であるが、そこにはいつか自分もそんなことをしてみたいという想いもまじっているのかもしれない。「今月は、パチンコに50万つぎ込んで、55万くらいでたから、5万くらいはもうかったかな」なんていう話を聞くと、この人は私の知らない世界で遊んでいる人なんだなぁ、きっと面白いんだろうなぁ、と思ったりするのである。もちろん、そんなに簡単にコトは運ばないだろう。そこで、私はつい「それで、トータルでは儲かっているんですか?」とお決まりの文句をしつもんしてしまう。彼らの答は「う〜ん、どうだろう、やめてみなければわからないな」というのが多い。上島氏のいう通りである。
しかし、ギャンブルをやっている私の知人でお金持ちはいない。彼らの多くは、仕事はちゃんとやっているが、どちらかというと貧乏暮らしをしているような人が多い。ところがみんな、40〜50のこの年になるまで(もっと上の方もいらっしゃいますが)身を持ち崩すことなくギャンブルを続けているのであるから、トータルでプラスにはなってないかもしれないが、大きく負けていないのではないだろうか?、ギリギリまで行った人をひとり知っているくらいである。
そう考えると、私の人生もギャンブラーのそれとたいして変わらないような気がしてきた。何の役に立つのか−−今は−−わからないようなろくでもないことに金を注ぎ込みながら、とりあえず破綻は免れている。違いは、自分の仕事は大きなリターンを望み様がないことと、あと経済的にはトータルでマイナスであることを自覚しているくらいである。それに酒。これだって、何で飲んでるんだろう。コミュニケーションのためとか、ストレス解消とか、そんなつまらないことのためだけに飲んでないことは確かである。芸術や学問も同じ。賭けてみないと、手応えがあるのかないのかは知りようがない。では何にどう賭けるのか? 上島氏の言葉を引用しよう。


つまり、規則正しい毎日を送り、幸福な家庭をもち、それでいて勝負にも強いなんてことは決してありえない。それ自身、矛盾したことなのである。勝負に勝つには、自分自身、型にはまらない生活をしていなければならない。どうにもわけがわからない人間でなければならない。(p. 127)


タオイズムの核心に触れるような発言である(そして、これがフィリップ・K・ディックの『偶然世界』 の話に続く)。しかし、このままだと少し、自分にとっては都合が悪い気がする。「勝負」を自分用に別の言葉に変えてみたいのだが、しかし適当なものが見つからない。やはり、それはそのままで良いのかもしれない。